「ブルーノ・サンマルチノ」の版間の差分

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* [[1951年]] - 家族で[[アメリカ合衆国]]の[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]に移住<ref name="ajpw"/>。
* [[1953年]]から[[1955年]]まで[[兵役]]に就く<ref name="ajpw"/>。除隊後は建設労働者として働いていた<ref name="OWW">{{cite web|url=http://www.onlineworldofwrestling.com/profiles/b/bruno-sammartino.html|title=Bruno Sammartino|accessdate=2010-05-19|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。
* [[1959年]]10月20日 - ピッツバーグ郊外のペンシルバニア州アリクイッパでプロレスラーとしてデビュー<ref name="gs48">『Gスピリッツ Vol.48』P46-47(2018年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777821285)</ref>。当時のギャランティーは、食費・移動費・宿泊費を含めて週250ドル程度であったという<ref name="gs48"/>。
* [[1959年]] - 東部地区でプロレスラーとしてデビュー<ref name="OWW"/>。
* [[1960年]]1月2日 - [[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン|MSG]]に初出場、[[ブル・カリー]]から勝利を収める<ref name="gs48"/>。
* [[1962年]]11月22日 - [[カナダ]]・[[トロント]]で[[ジョニー・バレンタイン]]を破り、[[NWA (プロレス)|NWA]]・USヘビー級王座を獲得<ref name="NWA US">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/canada/on/nwa/on-us-h.html|title=NWA United States Heavyweight Title|accessdate=2010-05-19|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。
* [[1963年]]5月17日 - [[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン|MSG]]で[[バディ・ロジャース]]を48秒で破り、第2代[[WWE|WWWF]]世界ヘビー級王者となる<ref name="WWE Official">{{cite web|url=http://us.wwe.com/inside/titlehistory/wwechampionship/|title=History of the WWE Championship|accessdate=2010-05-19|publisher=WWE.com}}</ref><ref name="WWE 1963">{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/63.htm|title=WWE Yearly Results 1963|accessdate=2010-05-19|publisher=The History of WWE}}</ref>。
* [[1964年]]2月17日 - 2度目の海外武者修行で全米をサーキットしていた[[ジャイアント馬場]](ババ・ザ・ジャイアント)を相手にMSGで[[WWE王座 (世界ヘビー級)|WWWF世界ヘビー級王座]]の防衛戦を行い、[[バックブリーカー#カナディアン・バックブリーカー|バックブリーカー]]で勝利を収める<ref name="MSG60s">{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/60smsg.htm|title=MSG 1963-1969|accessdate=2010-02-07|publisher=The History of WWE}}</ref><ref name="WWE 1964">{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/64.htm|title=WWE Yearly Results 1964|accessdate=2010-05-19|publisher=The History of WWE}}</ref>。
* [[1966年]]4月 - [[オーストラリア]]([[ジム・バーネット]]主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に遠征し、[[ワルドー・フォン・エリック]]、[[キラー・コワルスキー]]、[[プロフェッサー・タナカ|トール・タナカ]]&[[ミツ荒川|ミツ・アラカワ]]などと対戦<ref name="aus">{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=306&bild=1&details=7&kampfland=8&jahr=1966|title=The matches Bruno Sammartino fought at Australia in the year 1966|accessdate=2018-06-06|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。9月の再遠征では[[シドニー]]において、ザ・デストロイヤー([[ガイ・ミッチェル]])が保持していたフラッグシップ・タイトルの[[IWA世界ヘビー級王座#オーストラリア版|IWA世界ヘビー級王座]]に連続挑戦<ref name="aus"/>。
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== ジャイアント馬場との関係 ==
* [[ジャイアント馬場]]とはレスラーとしてのキャリアは1年しか違わず、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後両者ともに出世し、時期は違えど世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、ダブルタイトルマッチは1975年5月(PWFとWWWF)の1回きりで、それ以外はお互いに相手の保持するタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形であった)。
* 馬場は自身の著書で、外国人選手のなかで国内選手と同様の友情関係が保てるのはサンマルチノだけと述べている。その証拠に馬場が全日本プロレスを旗揚げするときに、アメリカで真っ先に相談に行ったのはどの地区のプロモーターでもなくサンマルチノであった。また、WWWFが全日本プロレスと友好関係を打ち切り、1974年に[[新日本プロレス]]と提携した際も、サンマルチノは馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し全日本プロレスに出場し続けた。これが最終的にWWWFと[[PWF]]のダブルタイトルマッチの実現に至った経緯ともなった。なお新日本とWWWFとの提携の際、サンマルチノと[[アントニオ猪木]]の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けて実現しなかった(猪木は[[1978年]]11月のヨーロッパ遠征で[[ローラン・ボック]]と対戦したが、この試合は日本代表の猪木とヨーロッパ代表のボックとのダブルタイトル戦であるとして、勝者はアメリカ代表のサンマルチノと世界統一戦を行う予定だったという<ref>『Gスピリッツ Vol.22』P80(2012年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777809846)</ref>)。
*[[キャデラック]]を愛車としていた。来日した際に、馬場が巨体を窮屈に押し込めて車に乗り込む姿を目撃したサンマルチノは、自分が当時乗っていた67年式キャデラックを馬場に船便でプレゼントした<ref>[[1990年]]9月放送の馬場デビュー30周年記念特番にて「窮屈そうに国産車に乗っていた俺の姿を見たサンマルチノがキャデラックをプレゼントしてくれたんだ」と馬場自ら語っている</ref>。その心意気に感動した馬場は、生涯、車を買い換える際は常に同じ色・型のキャデラックを選び続けた。
*1999年5月2日に行われた全日本プロレス東京ドーム大会において組まれた「ジャイアント馬場引退試合」に、最後の対戦相手として[[ジン・キニスキー]]と共に指名されている。そしてリング上で「ババ、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった。君はすべての人に愛され、大切にされた素晴らしい人物だった。今日この場にいられることを嬉しく思う」とスピーチした。
 
== 人物 ==
* [[スタン・ハンセン]]によると、ニューヨークでキャリアを築いていくにあたり、色々と親身に相談に乗ってくれたのがサンマルチノであり、それはハンセンがボディスラムのかけ損ないでサンマルチノに大怪我をさせてからも変わらなかったという。
* 初来日時、一緒に来日していた怪力[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]レスラーの[[アート・トーマス|セーラー・アート・トーマス]]に対し「黒人とタッグを組むのは嫌だ」と差別的な発言を行い、怒ったトーマスの要求で2人のシングル戦が組まれたという(サンマルチノとトーマスは当時の[[WWE|WWWF]]で何度となくタッグを組んでおり、真偽は不明)。結果はサンマルチノの勝利([[桜井康雄|原康史]]『激録 馬場と猪木』による)。
[[ファイル:Smmartino, Street, and Watts.jpg|thumb|200px|right|左からサンマルチノ、[[エイドリアン・ストリート]]、[[ビル・ワット]](2005年)]]
* [[スタン・ハンセン]]によると、ニューヨークでキャリアを築いていくにあたり、色々と親身に相談に乗ってくれたのがサンマルチノであり、それはハンセンがボディスラムのかけ損ないでサンマルチノに大怪我をさせてからも変わらなかったという。
* [[1970年代]]以降は[[かつら (装身具)|カツラ]]を着用しており、試合中に相手レスラーから頭部を掴まれることを極端に嫌っていた。その当時、既にトップレスラーとして不動の地位を確立していたサンマルチノに対しては、暗黙の了解として御法度の技が存在した(カツラが外れる怖れのある[[ヘッドロック]]など)。もっとも、この頃全日本に登場したサンマルチノに対し、馬場は遠慮無く脳天[[チョップ]]を放っているが、これによって2人の友情が壊れるようなことはなかった(当時は[[インターネット]]などなく、日本でカツラが脱げたとしてもそれがニューヨークに報じられる可能性はまったくなかった)。
* 現役時代からホームタウンの[[ピッツバーグ]]におけるWWWFの興行を手がけるなどプロモーターとしても活動しており、引退後の[[1982年]]には[[アメリカ合衆国北東部|ノースイースト地区]]においてインディー団体'''IWF'''(''International Wrestling Federation'')を主宰していた。IWFには息子の[[デビッド・サンマルチノ]]、弟子の[[ラリー・ズビスコ]]、腹心の[[ドミニク・デヌーチ]]、[[ジョニー・バリアント]]、[[ガイ・ミッチェル|ジェリー・バリアント]]、[[ハンス・シュローダー]]、一時的にカムバックした[[キラー・コワルスキー]]などが出場していた<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&sort=liga&liga=84&jahr=1982|title=Wrestling Events: International Wrestling Federation|accessdate=2018-04-19|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。全日本プロレスにもロッキー・ジョーンズ(マイク・マスターズ)などの所属レスラーが招聘されている。