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'''足利 国朝'''(あしかが くにとも)は、[[安土桃山時代]]の[[武士]]。弟の[[喜連川頼氏|頼氏]]が称した名字所領ちなんで'''喜連川国朝'''とも呼ばれる(弟の[[喜連川頼氏|頼氏]]の代からは喜連川を名字とした)。[[諱]]の「国」(旧字体:國)、「朝」の両字は祖先にあたる[[河内源氏]]の人物が<ref>「国」は[[足利氏]]の創始者[[源義国]]などが、「朝」は[[源頼朝]]などが用いた。</ref>使用したものに由来するもので、何か特別な理由があって先祖・先人にあやかる形で名乗ったのであろう。
 
なお、『[[喜連川判鑑]]』では男性の[[関東公方]]家当主としては唯一[[花押]]の記載がない。
 
== 生涯 ==
[[元亀]]3年([[1572年]])、[[小弓公方]]・[[足利義明]]の次男・[[足利頼純]](頼淳)の嫡男として誕生する
 
[[古河公方]][[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]の死後、関東における[[足利氏]]の系統は断絶しており、[[豊臣秀吉]]は名族の足利氏が滅亡することを惜しみ、義氏の娘・[[足利氏姫]](足利氏女)と、足利義明の孫にあたる国朝を結婚させて、足利氏を再興させた。
 
しかし、古河公方の跡取り娘と[[小弓公方]]創設者の孫という対立公方家間の政略結婚であったため、双方の家臣は自分たちが真の足利氏後継と考えていた。そのため、国朝は秀吉から[[下野国]]喜連川の地に400貫の所領を与えられたが、足利氏姫たちは自領の館で暮らし、のちの[[喜連川藩]]立藩の際にも喜連川には足を踏み入れなかったという。
 
文禄2年(1593年)、[[文禄・慶長の役|文禄の役]]に従軍して[[肥前国]][[名護屋城|名護屋]]に赴く途上の[[安芸国]]で病のために死去した。
 
なお、後に足利氏姫は国朝の弟である頼氏と再婚して一子・[[喜連川義親|義親]]を産んだ。