「一色直兼」の版間の差分

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同11月1日(11月18日)、持氏が上杉方の[[長尾忠政]](芳傳、[[長尾忠綱]]の子)に[[相模国]]葛原で投降すると<ref>既に10月4日に幕府方に寝返り鎌倉守備を放棄していた[[三浦時高]]がこの日鎌倉に討ち入り御所を攻め落としている。</ref>直兼等の持氏近臣は恭順のため相模金沢の[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]に入ったが許されず、幕府の差し向けた討伐軍に攻められて同年11月7日(1438年11月24日)自害した(出典→「[[永享記]]」:『日本歴史文庫6』黒川真道編所収)。
 
甥にあたる[[一色時家|持家]](時家、刑部少輔)も直兼と共に戦い、持氏方が敗れると関東を出奔し[[三河国]]に逃れた。その後も幸手一色氏は絶えることなく、[[結城合戦]]に参陣した[[一色伊予六郎]]や、持氏直兼[[一色直明]]長男であり、5代鎌倉公方[[足利成氏]]の命で鎌倉[[建長寺]]の僧から還俗し[[右衛門佐]]と称しを賜った[[一色蔵主]]、これより先の幼少期に結城合戦で囚われ、京に送られ三年の入牢後許され、室町府で元服し、[[宮内省|宮内大輔]]を称し賜っその弟三男[[一色直清]]らがいる<ref>関東一色氏 → 下記参考文献の2、pp149-150 。</ref>。次男の嫡子亀乙丸は父直明と共に[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]で自害
 
直兼ら幸手一色氏の永享の乱への加担は、三河守護[[一色氏]]粛清の遠因となった。