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S-alfeyev (会話 | 投稿記録)
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== 日本の歴史 ==
かねてから美術性を求めた高価な一品品から、実用一辺倒の安価な量産品まで様々なものが存在しており、鑑賞に堪えるものを'''上手物'''(じょうてもの)と呼び、簡素な一般向けのものを'''下手物'''([[ゲテモノ]])と呼んでいた。
 
江戸時代には実用品を作る職人は仕事を求め『渡り職人』として様々な土地へ赴き技術を広めていった。現在の[[新潟県]][[燕市]]では仙台からの渡り職人により[[鎚金|鎚起]][[銅器]]の技術がもたらされ、現代でも[[玉川堂]]が技術を受け継いでいるなど、地場産業へ影響を与えた例がある<ref>[http://www.gyokusendo.com/about/history 玉川堂の歴史 | 玉川堂について] - [[玉川堂]]</ref>。
 
近代工芸の本格的な研究と産業育成は、1928年に[[商工省]]が[[仙台市]]にある[[仙台陸軍幼年学校]]の跡地に[[国井喜太郎]]を所長とする「国立工藝指導所」を設立したことに始まる。これは商工省の官僚だった[[岸信介]]とその上司で宮城県出身の[[吉野信次]]が、[[世界恐慌]]で悪化した地方の経済対策として打ち出したとされる。指導所は[[ブルーノ・タウト]]などを指導者として招聘し、工芸に携わる技術者を育成した。また[[剣持勇]]などが研究者として在籍していたほか、[[工芸ニュース]]を発行し、工芸の紹介なども行われていた。
 
1940年に本所が東京に移転され、指導所が各地に設立。1959年には「産業工芸試験所」となり、工業技術の研究も行われるようになった。しかし1967年に工業技術試験所へ改組されると研究は工業分野が主流となり、国主導の工芸研究は終了した。なお同所は後に[[産業技術総合研究所]]へと改組されているが、20142018年現在まで工芸やデザインの研究は行われていない。また仙台の指導所も産総研東北センターに統合されているが、設立当時の資料や試作品が保存されており、東北センター内の「工芸試作品展示室」で展示されている。また指導所の跡地に建てられた[[仙台市立宮城野中学校]]の敷地内。「近代工芸発祥の地」を記念したプレートが残されている。
 
伝統的な[[民具]]など、実利的な使われ方をしながら世代を超えて使い続けられた物の中には、[[骨董品]]として現存するものも少なくなく、いわゆる「生活骨董」の分野ではこういう時代を経て利用されてきた工芸品を珍重、高値で売買する市場も存在する。