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222年、魏の[[曹休]]が洞口に攻め寄せると、[[呂範]]や[[全ソウ|全琮]]とともに長江を渡って迎撃しようとしたが、暴風雨により多くの船や人員を失った。しかし結果的には残兵をかき集めて、曹休と長江を夾んだ。曹休は兵に船で徐盛を攻めさせたが、徐盛は少数で多数を禦ぎ<ref>『三國志·呉志·徐盛伝』:遭大風、船人多喪、盛收餘兵、與休夾江。休使兵將就船攻盛、盛以少禦多、敵不能克、各引軍退。<br>『太平御览』卷九九六引『呉書』:徐盛與曹休戰,賊積茅草欲焚盛,盛燒船而去,賊一無所得。<br>《讀史方輿紀》:呂範敗於洞浦,魏臧霸以輕船襲徐陵,全琮、徐盛擊卻之。</ref>、敵は克てずに各々軍を引いて退いた。安東将軍・蕪湖侯となった。
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[[224年]]、曹丕が自ら大軍を率い長江沿いに南下してきた。徐盛は、計を建てて建業より囲営を築いて薄落を作し、囲上には仮楼を設け、江中には船を浮かべた、険要な山脈には数多くの旌旗を設け、案山子を作して甲冑を身に着けた、沿岸数百里におよぶ偽の城壁を建造しようとした。諸将は無意味だと挙って反対したが、徐盛はこれを強行して偽の一夕城を築いた、この策案は孫権で受け入れられた。曹丕は広陵に到ると囲営を望見して愕然とし、魏の人
その後、[[黄武]]年間([[222年]]-[[229年]])に没したという。
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