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[[紀元前4世紀|紀元前312年]]に当時の[[ケンソル]]であった[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]の要請により[[元老院 (ローマ)|元老院]]の反対のなか、すでに存在した[[ローマ]]と[[アルバーノ]]丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈な[[ヴェスヴィオ山|ウェスウィウス山]]の[[火山岩]]が用いられた。
 
アッピア旧街道の当初のルートはローマの[[セルウィウス城壁]]出口の一つ[[カペーナ門]]([[カラカラ浴場]]付近)を起点とし、[[アリッチャ]]、アッピウスのフォルム、[[テッラチーナ]]、[[フォンディ]]、[[フォルミア]]、[[ミントゥルノ]](ミントゥルナエ)、[[モンドラゴーネ]](シヌエッサ)、[[カプア|カープア]]までであった<ref>{{Cite book|和書 |author = [[小林登志子]] |year = 2015 |title = 文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ |publisher = [[中央公論新社]] |page = 105 |isbn = 978-4-12-102323-0}}</ref>
 
[[紀元前2世紀|紀元前190年]]、街道は[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]](現ベネヴェント)や[[ヴェノーザ|ウェヌシア]](現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代には[[ターラント|タレントゥム]](現ターラント)と[[ブリンディジ|ブルンディシウム]](現ブリンディジ)まで延長された。