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参戦初年度の[[1998年の全日本GT選手権|1998年]]から優勝を飾り(第4戦富士ホンダ勢GT初優勝)、強さを見せたニスモに唯一食らいつきランキング2位。その後も毎年のように優勝を挙げ、[[2002年の全日本GT選手権|2002年]]にはシリーズ3勝、6号車ルマンと最後の最後までタイトルを争ったが1ポイント届かず再びランキング2位。[[2003年の全日本GT選手権|2003年]]は参戦以来初めて未勝利に終わるが、メインスポンサーがEPSONに変わった[[2004年の全日本GT選手権|2004年]]は不調に喘ぐホンダ勢で唯一優勝を飾り、ランキング8位ながらホンダ勢最上位を獲得。NSX好調で迎えた[[2007年のSUPER GT|2007年]]でもこの年圧倒的な力を見せたARTAには及ばなかったが、最終戦で優勝を飾って最多3度目のドライバーズランキング2位。NSXラストイヤーの[[2009年のSUPER GT|2009年]]こそ振るわなかったが、12シーズンに渡り目覚ましい活躍を収めた。
 
カーナンバーは2003年まで“64”だった。これは監督の中嶋が[[1989年オーストラリアグランプリ]]で[[ファステストラップ]]を記録したのが64周目だったことにちなむ<ref name=as150213>[{{citenews |url=http://as-web.jp/news/info.php?c_id=2&no=63171 |title=なぜ? NAKAJIMA RACING『64』復活の理由] - |publisher=オートスポーツ |date=2015年2月-02-13 |accessdate=2018-08-26}}</ref>。2004年に“32”に変更されたが、これはレースの公式プログラムなどでエントリーリストがカーナンバー順に作られる際に、自チームの掲載位置が後ろの方になるのを嫌がったためという<ref name=as150213 />。
 
=== HSV-010 ===