「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の版間の差分

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この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、[[モンマルトル]]のコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』の制作に取り掛かった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106, 108)]]、[[#木村|木村 (2012: 159)]]。</ref>。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、{{仮リンク|エドモン・メートル|fr|Edmond Maître}}、[[テオドール・デュレ]]、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 275)]]。</ref>。
 
1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、[[ギュスターヴ・カイユボット]]に宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 110-11)]]。</ref>。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で'''第2回印象派展'''が開かれた。ルノワールは、『習作『[[陽光の中の裸婦]]など18点を出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 112, 264-65)]]。</ref>。
 
批評家{{仮リンク|アルベール・ヴォルフ (ジャーナリスト)|en|Albert Wolff (journalist)|label=アルベール・ヴォルフ}}は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 115-17)]]。</ref>。