「ウスリー川」の版間の差分

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ロシア沿海地方の中央を貫く[[シホテアリニ山脈]]の雪融け水や[[泉]]から無数の川が発し、ウスリー・タイガと呼ばれる松や広葉樹林の原生林を西に流れた後、東北に向きを変えて次々に支流を合わせながらロシア・中国の国境を流れ、[[ハバロフスク]]の近くでアムール川に[[合流]]する。合流点に中露の領土争いの対象となってきた中州である[[黒瞎子島]](大ウスリー島)がある。
 
全長は約897kmあり、流域面積は193,000平方キロメートルにおよぶ。中国側からの主要な[[支流]]は2つあり、ひとつは黒龍江省と吉林省の境に発し黒龍江省を東へ流れ、[[穆棱市|穆棱]]、[[鶏西]]などを経て[[虎林市]]付近で合流する「穆棱河」で、もうひとつは[[ハンカ湖]](興凱湖)を源に国境を北へ流れて合流する「[[松阿察河]](ソンガチャ河)」である。それ以外のウスリー川の[[支流]]のほとんど([[ホール川]]、{{仮リンク|アニュイ川|ru|Анюй (приток Амура)}}、[[ビキン川]]、といった大きな川など)は、ロシア側のシホテアリニ山脈の[[タイガ]]から流れている。
 
ウスリー川は大きな被害をもたらす[[洪水]]でも有名である。冬には氷が張り、11月には氷結して4月まで氷は融けない。また[[サケ]]、[[マス]]、[[チョウザメ]]、その他多くの魚が豊富で漁業が盛んである。中国の河川としては汚染が少ない川であるが、支流の黒龍江省東部付近の鉱工業地帯の排水などが今後心配されている。
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古代以来、ウスリー川の両岸にわたり、[[ツングース]]系の[[しゅくしん|粛慎]]・[[挹婁]]・[[勿吉]]・[[靺鞨]]や[[女真]]といった民族が活動しており、中国・朝鮮との間で交易をするほか戦争も起こしていた。
 
6世紀から9世紀にかけての[[唐]]の時期、[[勿吉]]は[[靺鞨]]と改称し、南の[[粟末靺鞨]]と北の[[黒水靺鞨]]にわかれ、粟末靺鞨は[[渤海 (国)|渤海]]を建国してウスリー川上流を領土に納め、黒水靺鞨はウスリー川の東岸や下流で活動した。黒水靺鞨は後に[[女真]]となり、彼らの地であるウスリー川岸を監督するため、[[元 (王朝)|元]]代には水達達路と阿速骨千戸府が建設された。[[明]]代には現在の虎林市虎頭の対岸の現ロシア側に亦麻河衛を、虎林県の街地虎林鎮の付近に失里綿衛を、[[饒河県]]の付近に失兀赤衛を、[[饒河県大楞]]半島より東に穆嚕失木魯河衛を、[[撫遠]]の対岸の現ロシア側に衛、伏里其衛、喜申衛などを置き女真を監督した。[[清]]代初期には[[寧古塔|ニングタ]]付都統轄区となり、[[雍正帝]]の時代には[[依蘭県|イラン]]副都統管領となった。
 
中国人や満州人はこの川を往来し、流域の諸民族やアムール河口の対岸に住む[[アイヌ人]]などから貢納される毛皮と中国産品とを交換する取引を行っていた。また、清の末期になると、流域に中国人農民や[[朝鮮王朝]]から逃れる朝鮮人農民らが入植をはじめた。[[1860年]]の中露[[北京条約]]締結により、ウスリー川の東([[外満州]])はロシア領となり、東岸はすべて[[ロシア帝国]]のプリモルスキー州(いわゆる[[沿海州]]、プリモルスキーとは沿岸部の意味)となった。沿岸には[[ウスリー・コサック]]が置かれた。