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=== 東京大学と留学 ===
明治11年([[1878年]])9月、前年に東京開成学校が改編され、新たに発足したばかりの[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]理学部本科(のち帝国大学理科大学)に入学した<ref name=ninohe159/><ref name=nbsk>{{Cite web|url=https://www.nbsk.or.jp/tanakadate/aikitu.html|title=博士の業績|accessdate=2018-8-17|website=特定非営利活動法人 二戸市文化振興協会|work=田中舘愛橘記念科学館|archiveurl=https://megalodon.jp/2018-0817-1034-40/https://www.nbsk.or.jp:443/tanakadate/aikitu.html|archivedate=2018-8-17|deadlinkdate= }}</ref><ref name=ninohe213>{{Cite journal|和書|author=菅原孝平|date=2014-11-1|title=今やらねば 田中舘愛橘の生涯 4|journal=広報 にのへ|issue=213|page=29|publisher=二戸市|url=https://megalodon.jp/ref/2018-0817-1049-40/https://www.city.ninohe.lg.jp:443/div/jouhou/pdf/kouhou/h26/141101.pdf|format=PDF|accessdate=2018-8-17}}</ref>。
在学中は主任教授となった山川から引き続き物理学を学び、[[菊池大麓]]からは[[数学]]を学んだ。また、{{仮リンク|ジェームス・アルフレッド・ユーイング|label=ユーイング|en|James Alfred Ewing}}からは数学、[[天文学]]、物理学、物理学実験、[[地磁気]]の観測を、[[トマス・メンデンホール|メンデンホール]]からは[[力学]]、[[熱力学]]を学んだ。これらの恩師との出会いは愛橘に多大な影響を与えた<ref name=ISN/><ref name=ninohe213/>。明治12年([[1879年]])にメンデンホールとユーイングによって[[トーマス・エジソン|エジソン]]の[[蓄音機|フォノグラフ]]が日本に紹介された際には、その試作を行い音響や振動の解析を試みている<ref name=Nipponica>{{Citation|author=井原聰|contribution=田中館愛橘 たなかだてあいきつ|contribution-url=http://archive.is/9buKz#54%|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=[[小学館]]}}</ref><ref>{{Citation|author=吉川昭吉郎|contribution=蓄音機 ちくおんき phonograph米語 gramophone英語|contribution-url=http://archive.is/GIUnu#23.5%|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=小学館}}</ref>。明治13年([[1880年]])にはメンデホールによる東京と[[富士山]]で実施された重力測定に従事した<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe213/>。翌明治14年([[1881年]])の夏から明治15年([[1882年]])にかけて[[札幌市|札幌]]、[[鹿児島県|鹿児島]]、[[沖縄]]、[[小笠原諸島]]へ出向いて地磁気を観測した<ref name=ninohe217/>。明治15年7月に東京大学理学部を第1期生として卒業、東京大学準助教授に就任する<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe215>{{Cite journal|和書|author=中村誠|date=2014-12-1|title=今やらねば 田中舘愛橘の生涯 5|journal=広報 にのへ|issue=215|page=17|publisher=二戸市|url=https://megalodon.jp/ref/2018-0819-1846-04/https://www.city.ninohe.lg.jp:443/div/jouhou/pdf/kouhou/h26/141201.pdf|format=PDF|accessdate=2018-8-19}}</ref>。
 
同年9月に[[長岡半太郎]]が東京大学へ入学する。長岡は愛橘が使用していた寄宿舎に同室し、生活を共にした<ref name=ninohe215/>。明治16年([[1883年]])にユーイングが帰国した後は、後任の{{仮リンク|カーギル・ギルストン・ノット|label=ノット|en|Cargill Gilston Knott}}からも地磁気の指導を受けた<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe217>{{Cite journal|和書|author=菅原孝平|date=2015-1-1|title=今やらねば 田中舘愛橘の生涯 6|journal=広報 にのへ|issue=217|page=15|publisher=二戸市|url=https://megalodon.jp/ref/2018-0819-2156-21/https://www.city.ninohe.lg.jp:443/div/jouhou/pdf/kouhou/h27/150101.pdf|format=PDF|accessdate=2018-8-19}}</ref>。愛橘はこの年に[[クモ]]の糸を用いた電磁方位計(エレクトロマグネチック方位計)を考案している。この方位計は従来の観測機器よりも時間をかけずに計測することが出来た。また、その論文は日本の学会報告書やロンドン王立協会誌においても掲載され、当時の世界で最も精度の高い方位計であると称えられたという<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe213/><ref name=ninohe217/>。同年12月、福岡に帰っていた父・稲蔵の[[割腹自殺]]の報を受けて帰郷、同27日に東京大学助教授に就任する<ref name=ninohe215/>。
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==== 濃尾地震の調査 ====
明治24年10月に[[濃尾地震]]が発生する。大学の命によりこの地震の激震地域の地磁気調査が任され、愛橘は現地へ赴いた<ref name=ninohe159/><ref name=ISN/>。激震地域の近傍には明治20年の全国地磁気測定の際の測定点が有り、今回の調査は同地点での再測量によるデータ比較を意図したものであった。この調査では地震前後の地磁気の変化が推定された<ref name=SGEPSS2>{{Cite web|url=http://www.sgepss.org/sgepss/kyoiku/sgepss/HistM24-1.html|title=濃尾大地震後の田中舘による地磁気測量|accessdate=2018-8-20|publisher=地球電磁気・地球惑星圏学会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070827231027/http://www.sgepss.org/sgepss/kyoiku/sgepss/HistM24-1.html|archivedate=2007-8-27|deadlinkdate= }}</ref>。また、[[岐阜県]]の[[根尾谷断層]]を発見して世界に向けて発表し、反響を巻き起こした<ref name=Nipponica/>。この調査経験を機に地震被害の軽減を目的とした観点から、地震研究の必要性を訴え、菊池大麓理科大学長と共に[[帝国議会]]へ建議案を提示した<ref name=ninohe159/><ref name=Nipponica/><ref>{{Cite web |url=https://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/08.html|title=科学者の目で震災に向き合う 田中館 愛橘(たなかだて あいきつ)【1856-1952】|accessdate=2018-8-22|work=いわて復興偉人伝|publisher=[[岩手県立図書館]]|archiveurl=http://archive.is/7mHWY|archivedate=2018-8-22|deadlinkdate= }}</ref>。12月から翌明治25年([[1892年]])1月にかけて長岡らと共に[[中部地方]]の磁気再測量を実施した。愛橘らはこれらの調査結果から、地震活動に伴い[[磁場]]が変化した可能性が高いと発表した<ref name=SGEPSS2/>。同年には文部省内に[[震災予防調査会]]が設置され、7月に愛橘は委員となり、以降の地震や火山活動の発生に際して調査や視察に参加して職責を果たした<ref name=ninohe159/><ref name=Nipponica/>。また、明治33年([[1900年]])頃には等倍の[[強震計]]を制作している。この地震計は[[中央気象台]]などで試験的に使用された<ref>{{Cite web|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/Field_4/Detail_404.html|title=田中館の地震計|accessdate=2018-8-22|work=理工学研究部 電子資料館 |publisher=[[国立科学博物館]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040813010335/https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/Field_4/Detail_404.html|archivedate=2004-8-13|deadlinkdate= }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=濱田信生|date=2000-03|title=地震計の写真に見る気象庁の地震観測の歴史|journal=験震時報|volume=63|issue=3・4号|page=97|publisher=[[気象庁]]|issn=13425684|url=https://megalodon.jp/ref/2018-0822-1825-47/https://www.jma.go.jp:443/jma/kishou/books/kenshin/vol63p093.pdf|format=PDF|accessdate=2018-8-22}}</ref>。明治36年([[19051903年]])には[[フランス]]の[[ストラスブール]]で行われた万国地震学会議設立委員会に列席、副議長を務めた<ref name=ISN/>。
 
==== 地磁気測定と各観測所の設置 ====
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明治17年([[1884年]])、山川健次郎ら海外留学経験のある東大教授らが中心となって、[[英語]]の発音に準拠した[[ヘボン式ローマ字]]表記を推進する「羅馬学会」が発足する<ref name=ninohe233>{{Cite journal|和書|author=菅原孝平|date=2015-9-1|title=今やらねば 田中舘愛橘の生涯 14|journal=広報 にのへ|issue=233|page=21|publisher=二戸市|url=https://megalodon.jp/ref/2018-0829-0347-25/https://www.city.ninohe.lg.jp:443/div/jouhou/pdf/kouhou/h27/150901.pdf|format=PDF|accessdate=2018-8-29}}</ref>。ところが過去に愛橘が東大の生徒だった時、ユーイングがフォノグラフにヘボン式で書いた日本語を逆さ読みにしたものを記録し、これを逆回しで再生して解析する日本語の音韻の研究を行っていた。これにより愛橘はヘボン式の表記法に疑問を持つようになる<ref name=ninohe233/>。明治18年([[1885年]])に愛橘は「理学協会雑誌」にヘボン式の使用に反対する意見を発表、「発音考」を著した後、12月に[[音韻学]]の観点から[[五十音図]]に基づいた「日本式つづり」を考案し総会に対案として提出した。これは帝国大学の弟子で物理学者の田丸卓郎によって[[日本式ローマ字]]と名付けられた<ref name=ninohe233/><ref name=CyberLibrarian>{{Cite web|url=http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/romanization.html|title=ローマ字|accessdate=2018-8-29|author=上綱秀治|date=2013-5-3|website=図書館員のコンピュータ基礎講座|publisher=CyberLibrarian|archiveurl=http://archive.is/TmhNo#15%|archivedate=2014-12-15|deadlinkdate= }}</ref>。翌明治19年([[1886年]])、愛橘らにより日本式ローマ字の月刊誌 “Rōmazi Sinsi” を発行するため、「羅馬字新誌社」が結成された<ref name=Nippon-no-Rômazi-Sya>{{Cite web|url=http://www.age.ne.jp/x/nrs/|title=入会のおすすめ|accessdate=2018-8-29|publisher=日本のローマ字社|archiveurl=http://archive.is/1ZY7t#57%|archivedate=2018-8-28|deadlinkdate= }}</ref>。
 
明治42年([[1909年]])には愛橘、[[芳賀矢一]]、田丸により羅馬字新誌社を母体とする「日本のローマ字社」が設立、明治43年([[1910年]])6月に「ローマ字新聞」を創刊、明治44年([[1911年]])7月に「ローマ字世界」を創刊、大正10年([[1921年]])に日本ローマ字会を創立するなどの活動を続け、弟子の田丸や寺田と共にその普及に努めた<ref name=ninohe159/><ref name="航空と文化"/><ref name=ninohe237/><ref name=Nippon-no-Rômazi-Sya/>。また、[[国語国字問題]]では「世界に日本語を広めるには、どうしても世界の文字なるローマ字でなければはかどらぬ」と[[ローマ字論]]を唱えた<ref name=ninohe235/>。愛橘は若いころから[[和歌]]を嗜んでいたが、昭和9年([[19201934年]])までに詠まれた和歌453首の内、ローマ字で詠まれた和歌は半数を超える<ref name=ninohe159/><ref name=ISN/>。
 
昭和5年([[1930年]])11月、文部省臨時ローマ字調査会委員に就任する<ref name=ninohe159/>。昭和12年([[1937年]])、日本政府は日本式ローマ字を基に これに若干の改変を加えた[[訓令式]]を採用し、内閣[[訓令]]第3号として公布した<ref name=ISN/><ref name=CyberLibrarian/>。しかし終戦後の昭和20年、日本占領軍司令官[[ダグラス・マッカーサー]]の命令によりヘボン式の使用が復活された<ref name=ISN/>。
 
愛橘は貴族院でローマ字国字論の演説を行うことで有名で、貴族院最後の登壇でもローマ字に関する演説を行った<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe233/>。昭和23年([[1948年]])8月には「時は移る」を刊行したが、その記載はローマ字と漢字かな書きの併記であった<ref name=ninohe159/><ref name="航空と文化"/>。メモや家族の手紙などもほとんどをローマ字で記載し、共に推進した田丸の墓碑には愛橘がローマ字で揮毫した<ref name=ninohe159/><ref name=ninohe237/>。ある時は航空に関する講演依頼でローマ字に関する話題を入れないよう要請されたが、愛橘は即座に断ったという程の徹底振りだった<ref name=ninohe235/>。5月20日は1955年([[昭和30年]])に「ローマ字の日」に制定されているが、愛橘の命日を1日ずらして20日としたものが、その由来であるともいわれている<ref name=ninohe233/><ref>{{Cite web|url=https://kanape-yokohama.com/tips/42/|title=5月20日はローマ字の日。ヘボン式の考案者ヘボン博士の足跡をたどろう!|accessdate=2018-8-29|date=2017-5-15|website=かなっぺ横浜・川崎版|publisher=カナオリ|archiveurl=http://archive.is/ViObk|archivedate=2018-8-28|deadlinkdate= }}</ref>。
 
=== 学術的外交官 ===
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* 1910年頃のこと、ドイツに留学経験のある[[寺田寅彦]]がとある会議での愛橘のドイツ語の発言について意見を述べたことが有った。寺田は「舘先生、勢いは宜しいのですが、少々乱暴なドイツ語ではありませんか」と告げた。これに対して愛橘は「聞かれた相手に直ちに答えようと思ったら、テニヲハなどにかまっておられるか。今やらなければ殺されると思え」と答えたという。後に寺田は「舘先生はいつも日本を背負って、死ぬ気でやってらっしゃるのだ」と振り返った<ref name=ninohe207/>。
* 1922年(大正11年)、[[改造社]]の[[山本実彦]]の招聘により、[[アルベルト・アインシュタイン]]が来日する。東京帝国大学理学部物理学教室では無料の特別講義が開かれ、アインシュタインは[[相対性理論]]を論じた。愛橘は6回の講義全てに出席したが、アインシュタインについては初日のノートに「年寄りの冷や水」「研究でない。ただの調べにすぎない」「調べたことを言っただけだ」とローマ字で書いたのみであった<ref name=Tagai/>。
* 愛橘は古くから軍部と関係を持ち、また、参議貴族院議員となる前からも政治的な行動が多かった<ref name=Fukai1,2>[[#深井|深井(2002年)]]1、2頁</ref>。教え子の[[長岡半太郎]]は愛橘とは逆に軍部と政治を嫌っており、これらの事から長岡は愛橘を批判することが何度かあったという<ref name=Fukai1,2/>。愛橘は昭和19年2月7日の第84回貴族院本会議において、「マッチ箱ぐらいの[[原子爆弾]]は東京全体を焼き払うことができる」と発言し、原爆待望論を展開した<ref name=Fukai2>[[#深井|深井(2002年)]]2頁</ref><ref name=Fukai15>[[#深井|深井(2002年)]]15頁</ref>。同じく貴族院議員であった長岡はこの愛橘の発言を聞き、[[原子力]]研究の専門家ではない愛橘が原爆を喧伝する行為に不信感を覚え、原爆開発が不可能であることを論文に提示した<ref name=Fukai15/>。
* 愛橘の[[文化勲章]]受賞は弟子や孫弟子の4人が同章を既に受賞しており、愛橘が受章していないのは申し訳ないと弟子たちからの推薦による受賞であった<ref name=ninohe241/>。
* 忘れっぽい性格で身の回りのものを置き忘れることがよく有った。そのため「ソコツ博士」というあだ名でも知られたが、愛橘はそれを気に掛けることは無かった<ref name="航空と文化"/>。