「田中舘愛橘」の版間の差分

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* 1922年(大正11年)、[[改造社]]の[[山本実彦]]の招聘により、[[アルベルト・アインシュタイン]]が来日する。東京帝国大学理学部物理学教室では無料の特別講義が開かれ、アインシュタインは[[相対性理論]]を論じた。愛橘は6回の講義全てに出席したが、アインシュタインについては初日のノートに「年寄りの冷や水」「研究でない。ただの調べにすぎない」「調べたことを言っただけだ」とローマ字で書いたのみであった<ref name=Tagai/>。
* 愛橘は古くから軍部と関係を持ち、また、貴族院議員となる前からも政治的な行動が多かった<ref name=Fukai1,2>[[#深井|深井(2002年)]]1、2頁</ref>。教え子の[[長岡半太郎]]は愛橘とは逆に軍部と政治を嫌っており、これらの事から長岡は愛橘を批判することが何度かあったという<ref name=Fukai1,2/>。愛橘は昭和19年2月7日の第84回貴族院本会議において、「マッチ箱ぐらいの[[原子爆弾]]は東京全体を焼き払うことができる」と発言し、原爆待望論を展開した<ref name=Fukai2>[[#深井|深井(2002年)]]2頁</ref><ref name=Fukai15>[[#深井|深井(2002年)]]15頁</ref>。同じく貴族院議員であった長岡はこの愛橘の発言を聞き、[[原子力]]研究の専門家ではない愛橘が原爆を喧伝する行為に不信感を覚え、原爆開発が不可能であることを論文に提示した<ref name=Fukai15/>。
* 愛橘の[[文化勲章]]受賞は弟子や孫弟子の4人が同章を既に受しており、愛橘が受章していないのは申し訳ないと弟子たちからの推薦による受章であった<ref name=ninohe241/>。
* 忘れっぽい性格で身の回りのものを置き忘れることがよく有った。そのため「ソコツ博士」というあだ名でも知られたが、愛橘はそれを気に掛けることは無かった<ref name="航空と文化"/>。