「意志の勝利」の版間の差分

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「ー」を復帰など。 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%8F%E5%BF%97%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9&diff=prev&oldid=53313457 用例:https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A-545636 https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E6%95%99%E4%BC%9A-546745 Obituarist21さん、Hof は ホ「ー」フ。 unsererなどと文法的にあり得ないのですが。
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| 画像解説 = 映画ポスター
| 監督 = [[レニ・リーフェンシュタール]]
| 製作総指揮 =
| 製作 = レニ・リーフェンシュタール<br />アドルフ・ヒトラー
| 脚本 = レニ・リーフェンシュタール<br />ヴァルター・ルットマン
| 出演者 =
| 音楽 = [[ヘルベルト・ヴィント]]
| 撮影 =
| 編集 =
| 配給 = {{flagicon|JPN}} 東和商事
| 公開 = {{flagicon|DEU1933}} 1935年3月28日<br />{{flagicon|JPN}} 1942年3月
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| 製作国 = {{DEU1933}}
| 言語 = [[ドイツ語]]
| 制作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''意志の勝利'''』(いしのしょうり、{{lang-de|''Triumph des Willens''}})は、1934年に[[レニ・リーフェンシュタール]]監督によって製作された[[記録映画]]。同年に行われた[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP, ナチ党)の第6回[[ナチ党党大会|全国党大会]]の様子が記録されている。
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=== 大会前日 ===
* ワーグナー風の音楽が流れる中、しばらく空白の画面が続いた後に、タイトルが現れる。
{{Quotation|{{lang|de|„}}Triumph„Triumph des Willens - Das Dokument vom Reichsparteitag 1934 - Hergestellt im Auftrage des Führers - Gestaltet von Leni Riefenstahl{{lang|de|“Riefenstahl“}}
 
(意志の勝利 - 1934年党大会の記録 - 総統の依頼により製作された - 製作レニ・リーフェンシュタール)}}
 
* 続いて字幕が現れる。
{{Quotation|{{lang|de|„}}Am„Am 5.September 1934 - 20 Jahre nach dem Ausbruch des Weltkrieges - 16 Jahre nach dem Anfang deutschen Leidens - 19 Monate nach dem Beginn der deutschen Wiedergeburt - flog Adolf Hitelr wiederum nach Nürnberg um Heerschau abzuhalten über seine Getreuen.{{lang|de|“}}
 
(1934年9月5日 - 世界戦争が勃発してから20年後 - ドイツの受難が始まってから16年後 - ドイツの再生が始まってから19か月後<ref group="注">現代の視点から客観的に言い換えると、「[[第一次世界大戦]]が勃発してから20年後 - ドイツが[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に調印してから16年後 - ヒトラーが[[ナチ党の権力掌握#ヒトラー内閣成立|首相に就任]]してから19か月後」となる。</ref> - アドルフ・ヒトラーは、彼の忠実な従者たちを観閲するために、再びニュルンベルクに向けて飛行した)}}
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* 眼下の市内の街路を、大会の参加者たちが隊列を組んで行進している。その上を飛行機の影がよぎる。曲はナチスの党歌 ''Die Fahne hoch'' ([[旗を高く掲げよ]])。
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1987-084-06, Junkers-Flugzeuge.- D-2600.jpg|thumb|right|230px|旧市街上空を飛ぶJu52]]
* [[ドイツ国]]の国旗(黒白赤の横三色旗)<ref group="注">この旗も1935年まで[[ハーケンクロイツ]]旗とともに国旗として用いられた。意匠は[[ドイツ帝国]]のものと同じ。[[ドイツの国旗]]を参照。</ref>が掲げられた{{仮リンク|聖ロレンツ教会|de|St. Lorenz (Nürnberg)}}などの上空を通過する。
* 飛行機がニュルンベルク飛行場<ref group="注">現在の[[ニュルンベルク空港]]よりも南東にあった旧飛行場。跡地は{{仮リンク|マリエンベルク市民公園|de|Volkspark Marienberg}}になっている。</ref>に着陸する。
* ヒトラーを乗せた車 ([[メルセデス・ベンツ#ナチスへの協力|メルセデス・ベンツ770K グローサー]]) を先頭に、党の幹部が乗った車を連ねたパレードが出発する<ref group="注">このパレードの[[シークエンス#映画|シークエンス]]で流れる曲は、前作『信念の勝利』の[[クレジットタイトル#オープニング、エンディング|オープニングクレジット]]で流れる合唱曲を行進曲風に編曲したもの。</ref>。
* 沿道の両側に群がった市民の[[ナチス式敬礼|敬礼]]に答礼で応える車上のヒトラー。
* {{仮リンク|がちょう男の噴水|de|Gänsemännchenbrunnen (Nürnberg)}}、{{仮リンク|コンラート・グリューベル|de|Konrad Grübel}}の像、{{仮リンク|ヴァイサー・トゥルム (ニュルンベルク)|de|Weißer Turm (Nürnberg)|label=ヴァイサー・トゥルム}}などの傍らを通り過ぎる。
* ヒトラーの定宿{{仮リンク|ホテル・ドイチャーホ (ニュルンベルク)|de|Hotel Deutscher Hof (Nürnberg)|label=ホテル・ドイチャーホーフ}}に到着。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]が厳重に警護する中、ホテルに入るヒトラー。群衆から {{lang|de|„}}Wir„Wir wollen unsererunseren Führer sehen{{lang|de|“sehen“}}(我らの総統を見たい)という声が起こり、2階の窓にヒトラーが姿を見せる。
* 夜間、ホテル前に詰めかけた群衆の中で、楽隊が行進曲などを演奏する。曲は[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]による ''Lützows wilde verwegene Jagd'' ([[リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)|リュッツォウ]]の勇猛な狩り)、''[[:de:Vaterlandslied (Arndt)|Der Gott, der Eisen wachsen ließ]]'' (鉄を鍛えさせた神) など。
 
=== 大会第1日 ===
* ワーグナー風の音楽をバックに、高い窓から俯瞰した早朝のニュルンベルク旧市街の家並み。
* [[ペグニッツ川]]に浮かぶ船上から見た{{仮リンク|旧救済院 (ニュルンベルク)|de|Heilig-Geist-Spital (Nürnberg)|label=旧救済院}}の近景から、仰ぎ見る{{仮リンク|聖ゼバルト教会 (ニュルンベルク)|de|St. Sebald (Nürnberg)|label=聖ゼーバルト教会}}の尖塔。
* 宿営地{{仮リンク|ラングヴァッサー|de|Langwasser}}の上空から見た、整然と並ぶ無数の野営テント。
* 大会参加者の青年たちが、洗顔や髭剃りなどの身支度をする。薪を荷車に山積みにして運び入れ、大がかりな調理器具で食事の用意をする。曲は ''Heraus zum Kampf'' (闘いに出よ)、''Musketierlied'' (マスケットの歌) など。
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==== ツェッペリン広場での国家労働奉仕団の点呼 ====
* シャベルを手にした国家労働奉仕団 (RAD) の大集団が、{{仮リンク|ツェッペリン広場|de|Reichsparteitagsgelände#Zeppelinfeld und Zeppelinhaupttribüne}}{{Refn|group="注"|この第6回党大会の開催時には、[[アルベルト・シュペーア|シュペーア]]が[[ペルガモン]]の大祭壇を模して設計した祭壇は、まだ完成していなかった。サーチライトを多用した「光の大聖堂」の壮大な演出が行われたのは、1936年の党大会以降である<ref name="ヒトラーのニュルンベルク_3">芝『ヒトラーのニュルンベルク』、134頁。</ref>。1934年の党大会を記録したこの映画には「光の大聖堂」の映像はない。}}に整列している。コンスタンティン・ヒールルの紹介を受けて、ヒトラーが演壇に立つ。
*隊列を組んだ数人の団員たちが、地面に立てたシャベルの上で手を組んで声をそろえる。「我らはここにいます」「我らにはドイツを新時代に導く準備ができています」「ドイチラント(Deutschland)」。
*一人の若い団員が周囲の仲間に「どこから来たか?」と尋ねると、次々と答えが返ってくる。[[フリースラント]]から、[[バイエルン州|バイエルン]]から、以下{{仮リンク|カイザーシュトゥール|de|Kaiserstuhl_(Gebirge)}}、[[ポメラニア|ポンメルン]]、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]、[[シレジア|シュレジエン]]、[[北海]]沿岸、[[シュヴァルツヴァルト]]、[[ドレスデン]]、[[ドナウ川|ドナウ]]、[[ライン川|ライン]]と続く。最後に「[[ザール (国際連盟管理地域)|ザール]]から」という声が返ってくる。
*団員たちがナチスのスローガン「一つの民族、一人の総統、一つの国家 (ein Volk, ein Führer, ein Reich)」を唱える。「ドイチラント(Deutschland)」のかけ声と同時に画面がヒトラーに変わる。
*続けて団員たちが唱和する。「今日我らは共に働く」「沼地で」「岩場で」「砂地で」「北の堤防で」「我らは木を植える」「枯れた森に」「我らは道を造る」「村から村へ 町から町へ」「我らは新しい農地を耕す」「野も林も 農地もパンも」「ドイツのために」。
* 団員たちが、''Wir sind die Männer vom Bauernstand'' (我らは農村育ち) を合唱する。
*再び一人の団員が語る。「我らは、塹壕の中に立ったことはない。手榴弾が飛び交う中にも立ったことはない。それでも我らは兵士である。我らはハンマーと、斧と、シャベルと、鍬と鋤を手にした国家の青年兵だ。」
*第一次世界大戦で戦場になった地名が列挙される。音楽は ''[[:de:Der gute Kamerad|Ich hatte ein Kameraden]]'' (私に一人の戦友がいた)。同時に旗手が持った国旗([[ハーケンクロイツ]]旗)がゆっくりと伏せられていく。「かつて{{仮リンク|ランゲマルク|en|Battle of Langemarck_(1917)}}で」「[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルク]]で」「[[リエージュの戦い|リエージュ]]で」「[[ヴェルダンの戦い|ヴェルダン]]で」「[[ソンムの戦い|ゾンム]]で」「[[ダウガヴァ川|デュナ]]で」「[[フランドル|フランデルン]]で」「西部で」「東部で」「南部で」「陸で、海で、そして雲の中で」「赤色戦線や反動勢力<ref group="注">赤色戦線(Rotfront)すなわち共産主義勢力と反動勢力(Reaktion)はナチスが敵視する勢力の総称。ナチスの党歌『[[旗を高く掲げよ]]』の歌詞にも「Kameraden, die Rotfront und Reaktion erschossen」とある。</ref>に討たれた同志たちよ」。ここで太鼓が鳴り、伏せられた旗が勢いよく掲げられる。「君たちは死んでいない」「君たちはドイツで生きている」。
* 続けてヒトラーが演説する<ref group="注" name="text"/>。
:「国家労働奉仕団の諸君。諸君が、このような形の点呼に整列するのは、私の前で、従って全ドイツ国民の前で、初めてのことである。諸君は、ひとつの偉大な理想を体現している。我々は知っている。我らの何百万という同胞<ref group="注">原語は [[:de:Volksgenosse|Volksgenosse]] (国民同胞)で、ナチス時代に多用された語。女性形は Volksgenossin で、ヒトラーやゲッベルスらの演説はしばしば「Deutsche Volksgenossen und Volksgenossinnen」という呼びかけから始まる。</ref>にとって、労働の概念はもはや様々ではなく、すべての人に共通なものに結ばれたことを。その上さらにドイツにおいては、力仕事を他の何らかの仕事よりも劣っていると見なす者は、もはや誰もいないだろうということを。
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* [[突撃隊]]の隊員たちが、夜のラングヴァッサーに集っている。''[[:de:Volk ans Gewehr|Volk ans Gewehr]]'' 「[[民族よ武器を]]」の歌声をバックに、突撃隊員たちの姿が、手に持った照明灯に照らされて、暗闇の中に浮かぶ。
* [[参謀長|幕僚長]]の[[ヴィクトール・ルッツェ]]が演壇に立つ。ルッツェは、自分が、突撃隊の創設当初の隊員であり、現在まで変わらず隊員であること、総統に忠誠を尽くし、総統のために闘うことを心掛けるのみである、という演説をする。
* 降壇したルッツェのもとに隊員たちが駆け寄り、人波に押されてルッツェが前に進めなくなる。隊員の中から {{lang|de|„}}Wir„Wir wollen unseren Stabchef sehen{{lang|de|“sehen“}}(我らの幕僚長に会いたい)という声がわき起こる。
* 場内には篝火が炊かれ、花火が打ち上げられる。その花火を、地面に寝そべり、体を寄せ合った隊員たちが、歓喜の表情で見上げる。曲は ''Pepitamarsch'' (ペピータ行進曲)。
 
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-K0326-0503-003, Nürnberg, Reichsparteitag der NSDAP.jpg|thumb|right|230px|中央広場での分列式と撮影風景]]
 
* {{仮リンク|聖母教会 (ニュルンベルク)|de|Frauenkirche (Nürnberg)|label=聖母教会}}前の{{仮リンク|中央市場 (ニュルンベルク)|de|Hauptmarkt (Nürnberg)|label=中央広場 (アドルフ・ヒトラー広場)|de|Hauptmarkt (Nürnberg) }}に観覧席が設営され、観客で満席になっている。ヒトラーが乗った車を先頭に、車列が坂道を下って広場に入ってくる。定位置に停車すると、ヒトラーが後部座席に立つ。道を挟んで向かい合わせに整列した楽隊の演奏に合わせて、ヒトラーを受礼者とする分列式が始まる<ref group="注">以下、行進する部隊の名称は、隊旗のデザインや服装などから明らかに識別できる範囲で記す。</ref>。部隊ごとに入れ替わる行進曲は、一部を除いてナチスの時代よりも前に作られたものである。
* 血染めの旗の行進に続き、ルッツェを先頭にした突撃隊の行進{{Refn|group="注"|同じ突撃隊として複数の部隊が行進する。1923年の第1回党大会以来、突撃隊旗はミュンヘン第1連隊、第2連隊、ニュルンベルク連隊、ランフート(Landshut)連隊の4つの隊に授与されるのが慣例だった<ref name="ヒトラー全記録">阿部良男『ヒトラー全記録』、95頁。</ref>。}}。観衆の中にシュトライヒャーの姿が見える。曲は ''Königgrätzermarsch'' ([[ケーニヒグレッツ行進曲]])<ref group="注">トリオの部分は'' [[:de:Der Hohenfriedberger|Hohenfriedberger Marsch]]'' (ホーエンフリートベルク行進曲)。</ref>。
* ゲーリングが先導する突撃隊の行進。観衆の中に[[ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク]]、[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]、[[エーリヒ・レーダー]]の姿が見える。曲は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]による ''Marsch des Yorckschen Korps''「[[ベートーヴェンの楽曲一覧#吹奏楽曲|ヨルク軍団行進曲]]」。
* 7本のハーケンクロイツ旗を先頭にした突撃隊の行進。観衆の中にブロンベルク、[[マックス・アマン]]、[[ヴァルター・ブーフ]]の姿が見える。曲は ''[[:de:Helenenmarsch|Helenenmarsch]]'' (ヘレーネ行進曲)。
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:なぜ辛かったのか。それは我々の党がちょうど7名であったとき、すでに2つの原則を表明していたからである。その1、真の世界観を持った党であるべし。その2、ゆえに妥協することなく、唯一の勢力、ドイツのただ一つの勢力であるべし。我々は、少数派の党に留まらなくてはならなかった。なぜなら、我々は闘争と犠牲という最も重要な構成分子だからである。戦時体制下の国家においては、そのような構成分子はいつも多数派ではなく少数派になる。そして、ドイツ国家の最高の人種的な価値を持つ者たちが自らを誇りに思いつつ、大胆かつ勇敢に国家と国民の指導権を求めたので、多くの民衆が仲間に加わり、指揮下に入ったのである。
 
:ドイツ国民にとって、こういう意識を持てることは幸運である。すなわち、“現象の絶え間ない逃走の中の、ひとつの安定した極に、今や最終的に交替した”<ref group="注">原文は{{lang|de|„}}die„die ewige Flucht der Erscheinungen nunmehr endgültig abgelöst wurde von einem ruhenden Pol{{lang|de|“Pol“}}。ちなみに[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の詩『散歩』([https://de.wikisource.org/wiki/Der_Spaziergang_(Friedrich_Schiller) Der Spaziergang] 1795年)に{{lang|de|„}}Sucht„Sucht den ruhenden Pol in der Erscheinungen Flucht{{lang|de|“Flucht“}} という一節がある。</ref>という意識である。交替したのは、この国の最高の血統を担っていると自覚している者である。そして、国家の指導者に上り、その地位を守り、その立場を利用し、もはや辞することはないと決意している者である。ドイツ国民は、政権の交代がようやく終わりを告げ、強力な政体が確立されたことに満足している。最高の血を引く男がこの国の指導権を握った。彼はそれを維持し、万民の最大の福祉のためにそれを行使し、一歩たりともあとへは引かない覚悟である。
 
:実際に活動している闘士たちは、いつも国民の一部に過ぎないだろう。そして彼らには、残りの何百万人の同胞よりも、さらに多くのものが要求されるだろう。彼らは「私は信じる」と告白するだけでは十分ではない。その代わりにこう誓うべきだ 「私は闘う」。この党は、いつの時代でもドイツ国民の最上の政治指導者であるだろう。党の原則は不変であるだろう。その組織は鋼鉄のように強いだろう。その戦術は柔軟で順応性があるだろう。それでいて、その全体像は一つの騎士団のようであるだろう。しかし目的はこうでなくてはならない。すべてのまっとうなドイツ人が国家社会主義者になり、最高の国家社会主義者だけが党員になることだ。