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|名称 = 鹿苑寺
|画像 = [[画像:Kinkaku-ji 2015.JPG|250px]]<br />舎利殿(金閣)
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[金閣寺町]]1
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|2|21.85|N|135|43|45.71|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=鹿苑寺}}
|山号 = [[北山]](ほくざん)
|宗 = [[臨済宗]][[禅宗相国寺|相国寺派]]
|宗派寺格 = [[臨済宗相国寺山外[[塔頭]]
|寺格 = 萬年山相国寺[[境外|山外]][[塔頭]]
|本尊 = [[観音菩薩]](方丈本尊)
|創建年 = [[応永]]4年([[1397年]])
|開山 = [[夢窓疎石]]
|開基 = [[足利義満]]
|正式名 = 北山鹿苑禅寺
|別称 = 金閣寺
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]] 第93番
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[[画像:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|足利義満]]
'''鹿苑寺'''(ろくおんじ)は、[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]にある[[臨済宗]][[相国寺|相国寺派]]の寺。[[建物]]の内外に[[金箔]]を貼った3層の[[楼閣]]建築である舎利殿は'''金閣'''(きんかく)、'''舎利殿'''を含めた[[寺院]]全体は'''金閣寺'''(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外[[塔頭]]寺院である<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 金閣寺とは] 臨済宗相国寺派</ref>。
 
寺名は[[開山 (仏教)|開基]](創設者)である[[室町幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の[[法号]]'''鹿苑院殿'''にちなむ<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/h_k.html 金閣寺のあゆみ] 臨済宗相国寺派</ref>。[[山号]]は'''北山'''(ほくざん)。寺紋は[[桐紋|五七桐]]<ref>千鹿野 茂『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 角川書店、1993年、373頁。</ref>。義満の'''北山山荘'''をその死後に寺としたものである。舎利殿は[[室町時代]]前期の[[北山文化]]を代表する建築であったが、[[昭和]]25年([[1950年]])に[[放火罪|放火]]により焼失し、昭和30年([[1955年]])に再建された。[[平成]]6年([[1994年]])に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])「[[古都京都の文化財]]」の構成資産に登録されている。
 
== 歴史 ==
この地には、[[鎌倉時代]]の[[元仁]]元年([[1224年]])に藤原公経([[西園寺公経]])が[[西園寺]]を建立し、併せて[[山荘]](「'''北山第'''」)を営んでいた<ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/archives/common/file/publication/journal-21.pdf 「衣笠キャンパス略史 — 校地・校舎の変遷について - (著・久保田謙次)」 立命館百年史紀要 第二十一号(2013年3月28日発行)287頁 - 332頁]</ref>。これらは公経の子孫である[[西園寺家]]が代々所有し、同氏は代々[[朝廷]]と[[鎌倉幕府]]との連絡役である[[関東申次]]を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の[[西園寺公宗]]が[[後醍醐天皇]]を西園寺に招待して[[暗殺]]しようとする謀反が発覚したために[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[日本における死刑|処刑]]され、西園寺家の膨大な[[所領]]と[[資産]]は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
 
[[応永]]4年([[1397年]])、室町幕府3代将軍足利義満が[[河内国|河内]]の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「'''北山殿'''」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は[[御所]]に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年([[1394年]])に義満は将軍職を子の[[足利義持|義持]]に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永15年([[1408年]])に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟[[足利義嗣|義嗣]]を追放して自らここに入ったが、翌16年([[1409年]])には北山第の一部を破却して[[三条坊門殿|三条坊門第]]に移った。
 
その後、義満の妻である[[日野康子|北山院[[日野康子]]の御所となっていたが、応永26年([[1419年]])11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の[[寝殿造|寝殿]]等は解体され、[[南禅寺]]や[[建仁寺]]に寄贈された<ref>[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』([[講談社学術文庫]])[[2009年]](原著は[[2001年]] ISBN 406268912X)ISBN 978-4062689120、84-85p</ref>。また、応永10年([[1403年]])の相国寺[[七重塔|七重大塔]](高さ約109メートル:日本史上で最も高い仏塔)の焼失を受け<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_nana.html 相国寺七重大塔](臨済宗相国寺派公式サイト)。</ref>、義満は当地に七重大塔(北山大塔。相国寺七重大塔と同程度の規模か<ref>[http://this.kiji.is/124058414962999302?c=39546741839462401 "京都・金閣寺で相輪出土 -義満建立、幻の北山大塔-"](共同通信、2016年7月8日記事(47NEWS))。<br />[http://www.asahi.com/articles/ASJ766K46J76PLZB024.html "金閣寺、幻の巨大仏塔の遺物か -相輪の一部?破片発見-"](朝日新聞、2016年7月8日記事)。</ref>)を建立していたが、これも応永23年([[1416年]])1月に落雷で焼失したため、改めて義持は相国寺に七重大塔を再建するよう命じている<ref>[[細川武稔]]「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』([[吉川弘文館]])2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875、29・36p</ref>。応永27年([[1420年]])に北山第は義満の[[遺言]]により[[禅寺]]とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。[[夢窓疎石]]を勧請開山(名目上の[[開山 (仏教)|開山]])としている。
 
[[応仁の乱]]では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、[[江戸時代]]に主要な建物が再建され、舎利殿も[[慶安]]2年([[1649年]])に大修理された。[[明治維新]]後の[[廃仏毀釈]]により、[[寺社領|寺領]]の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世[[住職]]貫宗承一により[[明治]]27年([[1894年]])から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
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[[Category:京都市北区の寺]]
[[Category:世界遺産 ら行]]
[[Category:神仏霊場巡拝の道]]
[[Category:京都市の重要文化財]]
[[Category:特別名勝]]
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[[Category:古都京都の文化財]]
[[Category:京都にある日本庭園]]
[[Category:西園寺家]]
[[Category:足利義満]]