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この講座に聴講生として通っていた[[平塚らいてう|平塚明子(平塚らいてう)]]の初の小説を草平が褒めたことをきっかけに明子と草平は接近し、[[1908年]](明治41年)2月1日に初めてのデート、さらに[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]の小説「[[死の勝利]]」に感化された二人は翌月の3月23日に[[栃木県]][[塩原]]で[[心中]]未遂事件を起こす([[煤煙 (小説)#心中未遂事件|塩原事件]])。官僚の令嬢であった明子が21日に遺書を残して失踪、捜索願が出ていた中、前日夜に塩原の宿を出て山へ向かった二人であったが、雪深い山中を歩く行為にすっかり疲れた草平の意気地の無さから心中は未遂に終わり、捜索に入った警官や宿の人間により、翌朝早々に[[尾頭峠]]付近の山中で二人は救助された。事件後の草平の身柄は[[朝日新聞]]社員だった漱石が引き取り2週間自宅に匿うことで、他のマスコミから隠した。この事件の風評により閨秀文学会は頓挫した。また、事件の後始末として漱石と[[馬場胡蝶]]は平塚家に対し、草平と明子の結婚を申し出たが、結婚などとは全く考えていなかった明子に呆れられた。<ref>東京を立つ前、明子は友人に「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」という遺書を残しており、(つまり草平云々ではなく)自分のポリシーを全うするために死という行為を選ぶ、としている。<!--- いわゆる「大人の[[厨二病]]」である。 ---></ref><ref>一方の草平は事件後、漱石に対し「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって、霊と霊との結合を期待した」と心情を述べたものの、漱石からは「結局、遊びだ」と一蹴されている。</ref><ref>草平を通して知った明子というキャラクターが、漱石の小説「[[三四郎]]」のヒロイン美禰子のモデルとなったとされている。</ref>
 
草平はこの心中未遂を漱石の奨めで小説化し、漱石の推薦で1909年11月[[小説]]『[[煤煙 (小説)|煤煙]]』として朝日新聞に連載され<ref>この連載が決定したことを漱石は草平に自ら伝えに行ったが留守であり、二度目に訪ねた際も留守であった。漱石は「どこを歩いて居るのか。あまり暢気にすると、向後もきっと好い事なき事受け合いに候」という叱責の手紙を残すが、草平がこれを読んで涙したのは翌朝である。</ref>、事件自体がセンセーショナルだったこともあり世間の評判となった<ref>小説「煤煙」のタイトルからのちに「煤煙事件」とも呼ばれたこの事件は当時、「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」と、新聞各紙はスキャンダラスに報道した。[http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html]</ref>。これが彼の[[文壇]]デビューとなる。さらなる風評の拡大を恐れ、この小説の発表を差し止めるために明子の母が漱石宅を訪ねているが、「ごもっともではあるが、あの男(草平)はいまは書くしか生きる道がない」と漱石は言い、つまりは発表を押し切っている。
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その後は『吉良家の人々』『[[細川ガラシャ|細川ガラシヤ夫人]]』などの歴史小説を著す一方で[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]・[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]・[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]・[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダヌンツィオ]]・[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカチオ]]などの翻訳を手がけた。
日本の歴史を題材にした作品を執筆するため、1930年代末から帝大史料編纂所にて史料収集を行っていたが、1945年6月、編纂所が戦火を逃れて[[長野県]]の伊那郡に疎開することになり、草平も近隣の山本村(現・長野県飯田市)惣教寺に疎開。のち[[阿智村]]の長岳寺の離れに転居した。<ref>戦後まもなく、東京渋谷の劇場の客席で草平を見た、と後に平塚らいてうが語っている。</ref>
 
最晩年の1948年に突然[[日本共産党]]に入党し、世間に話題をまいた。ただし活動は全く行っておらず、共産党の宣伝になっただけであった。
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師であり恩人である漱石の死に際しては「自分は永遠に漱石の弟子であり、自分自身は一生、師と呼ばれるような人間になれる気がしない」と述べている。
 
== 家族 ==