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[[1986年]]、県予選を初優勝し、[[第65回全国高等学校サッカー選手権大会|第65回選手権大会]]に出場。2年生ながら高いテクニックと戦術眼を持ち、広い視野でゲームメイクを行い、4-4-2の[[サッカーのフォーメーション|布陣]]の中盤の底でレギュラーを務めた。決勝の[[長崎県立国見高等学校|国見高校]]戦では、5万7千人が詰め掛けた[[国立競技場]]の[[観客席|スタンド]]に[[サッカーブラジル代表]]の[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]が観戦に訪れ、テレビ中継のゲスト解説にはブラジル時代の[[三浦知良]]が試合を見つめる中、[[コーナーキック]]から2点目の[[大嶽直人]]の得点を[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]するなど、[[東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部|東海大学第一高校]]の初優勝に貢献。'''初出場・全試合無失点優勝'''<ref>決勝まではすべて3-0で勝ち上がり、決勝戦は2-0で勝利した。初出場、無失点優勝は[[全国高校サッカー選手権]]において未だ破られていない記録である。</ref> という前人未到の快挙を成し遂げた。選手権優勝の影響は絶大で、大会後の県新人戦では会場の周囲がファンで埋まり、[[バレンタインデー]]にはチョコレートが大きなトラックで届くほどだったという<ref name="『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁">『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁</ref>。のちのインタビューでチームメイトであったアデミール・サントスは「ノボリ(澤登)と[[平沢政輝|平澤]]は女の子に大人気でちょっとうらやましかった、私はテレビで梅干しが好きだと言ったら、一生かかっても食べ切れないほどの梅干しが届いて驚いた」と語った<ref>『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 52頁</ref>。澤登は「選手としての注目度も高まり、県の[[国民体育大会サッカー競技|国体]]代表にすら選ばれてなかった自分が[[サッカー日本代表#年代別日本代表|ユースの日本代表]]に呼ばれ、手のひらを返したように高評価を受けました。」「選手権に出場して自分のプレーを多くの人に見てもらった事で、その後のサッカー人生が大きく変わった」と語っている<ref name="『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁"/>。
 
[[1987年]]は[[キャプテン (サッカー)|主将]]を務め、中原幸司、[[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]]、[[平沢政輝]]らと共に、冬の選手権に臨んだ。[[全国高等学校サッカー選手権大会静岡県大会|選手権予選静岡県大会]]の決勝では、[[国民体育大会サッカー競技|国体]]代表7人を擁する[[静岡市立清水商業高等学校|清水商業]]を敗り優勝。大会MVP、ベストイレブンに選ばれ2年連続全国大会進出を果たした。[[第66回全国高等学校サッカー選手権大会|第66回選手権大会]]では、準々決勝で[[礒貝洋光]]、[[森山泰行]]、[[本田泰人]]らを擁した[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]にPK戦の末に勝利。準決勝は[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|インターハイ]]を制した[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]を敗り決勝に進出。2年連続同一カードとなった決勝は、後に[[オリンピックサッカー競技・日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|五輪代表]]や[[清水エスパルス|清水]]でチームメイトになる[[永井秀樹]]がいた[[長崎県立国見高等学校|国見高校]]に敗れ準優勝に終わった。また、3年時は[[サッカー日本代表#年代別日本代表|ユース日本代表]]に初選出。静岡県選抜にも選ばれ[[第42回国民体育大会]]では、2年ぶり13回目(選抜チームとしては10回目)の[[国民体育大会サッカー競技#歴代結果|優勝]]に貢献した。
 
[[1988年]]に[[東海大学]]に入学すると、攻撃的[[ミッドフィールダー|MF]]として、[[礒貝洋光]]と共に1年時からレギュラーとして活躍。数々のタイトルを獲得し、[[全日本大学サッカー選手権大会]]では4年連続<ref>入学する[[第36回全日本大学サッカー選手権大会|前年]]・[[第35回全日本大学サッカー選手権大会|前々年]](共に準優勝)を合わせると6年連続出場。入学した[[1988年]]の[[第37回全日本大学サッカー選手権大会|第37回大会]]で東海大学が初優勝を飾った。</ref> で決勝に進出するなど、東海大学の黄金期を築いた。[[第37回全日本大学サッカー選手権大会]]では、[[ハットトリック]]をマークするなど活躍し初優勝に貢献。1年生ながら大会[[第37回全日本大学サッカー選手権大会#最終結果|MVP]]に選ばれた。[[1990年]]の[[第39回全日本大学サッカー選手権大会]]では、準決勝で前人未到の4連覇が懸かった[[順天堂大学蹴球部|順天堂大学]]に、値千金のゴールを決め勝利に導くなど、2年ぶりの優勝に貢献し、2度目の[[第39回全日本大学サッカー選手権大会#最終結果|MVP]]を受賞した。[[1991年]]の第15回[[総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント]]では、前年の準優勝の雪辱を果たし、初優勝を飾った。在学時の[[東海大学体育会サッカー部|サッカー部]]には、同学年に礒貝のほか、[[加藤望]]、[[飯島寿久]]、[[後藤太郎]]。1学年上に[[山口素弘]]、[[岡中勇人]]、[[巻田清一]]。1学年下に[[橋本雄二]]、2学年下に[[田坂和昭]]等がいた。また、[[サッカー日本代表#年代別日本代表|年代別日本代表]]では、背番号10を背負い、[[AFCユース選手権]]や[[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナ五輪予選]]で[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]を務めた。[[1992年]]に[[東海大学]]体育学部卒業。
 
===年代別日本代表===
[[1988年]]、[[U-20サッカー日本代表|日本ユース代表]]として[[AFCユース選手権]]に出場。予選では[[ハットトリック]]を記録するなど活躍し、日本ユースの4大会ぶりの本大会出場に貢献。決勝大会は、第1戦で[[U-20サッカー大韓民国代表|韓国]]に敗れ、第2戦の[[U-20サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦では、前半は相手を圧倒するも無得点。後半に2点を奪われると、終了間際に澤登が[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]を直接決めて1点差とするも、反撃及ばず敗戦。最終戦を残して日本の敗退が決まり、[[1989年]]に[[サウジアラビア]]で開催された[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース選手権]]出場はならなかった。澤登は今大会6試合出場5得点をマークした。
 
[[1989年]]、[[1992年バルセロナオリンピック]]を目指す[[サッカー日本代表#年代別日本代表|五輪チーム]]が立ち上げられ、[[オリンピックサッカー競技・日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|日本代表メンバー]]に選出された<ref>チーム発足時は[[1969年]]1月1日生まれ以降の選手が招集されたが、五輪出場の年齢制限が同年8月1日生まれ以降に変更となると、
同級生であった[[礒貝洋光]]、[[森山泰行]]、[[菊原志郎]]等がメンバー外となった。</ref>。[[1989年]]~[[1990年]]は、合宿や海外遠征を行い、[[1991年]]の6~7月にかけて、[[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナ五輪・一次予選]]が開催された。当時赤色だった代表ユニフォームに背番号10番付け全6試合にフル出場。澤登は[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]としてチームを牽引。初戦では開始27秒で得点という記録も残した。日本は5勝1敗で予選1位通過を果たした。
 
一次予選を突破した日本は、[[1992年]]の1月に開催される最終予選に向けて、[[サッカー日本代表#歴代監督の一覧|A代表の監督]]を務めていた[[横山謙三]]を総監督に据え、[[山口芳忠]]監督と二頭体制で五輪代表のレベルアップを図った。しかし、初めて結成された[[U-23サッカー日本代表|23歳以下の日本代表]]ということもあってか、強化試合は日程が厳しく毎回参加選手が変わり、練習する時間も無く、チームとして力を発揮できずに終わった。さらには、1次予選で7得点(内4得点が決勝点)をマークした[[山口敏弘]]が、所属チームの不祥事で出場停止処分となり、山口と2トップを組んでいた「アジアの虎」こと[[服部浩紀]]も調子を落とし最終的にメンバーから外れ、前線の構成が大きく変わるなど、日本は万全ではない状態で最終予選に臨むこととなった。澤登は最終予選もキャプテンを務め、3-5-2の[[サッカーのフォーメーション|布陣]]の中盤でプレー<ref>最終予選では、1次予選で4試合先発出場した[[藤田俊哉]]と、1得点をマークした仲村浩二が中盤のメンバーから外れ、新たに[[永井秀樹]]、[[名波浩]]がチームに加った。</ref>。後に[[サッカー日本代表|A代表]]でも活躍する[[小村徳男]]、[[相馬直樹]]、[[名良橋晃]]、[[名波浩]]らと共に中2日5試合を戦った。日本は、試合の主導権を握ってもゴールが奪えず得点力不足に悩み、試合終盤で耐え切れず失点するなど、第3戦の[[U-23サッカーバーレーン代表|バーレーン]]にこそ大勝したものの、1勝2敗1引き分けと、なかなか勝ち点を積み重ねることができなかった。他力ながら五輪出場の可能性をわずかに残した最終戦の[[U-23サッカーカタール代表|カタール]]戦では、相手のスピードに乗った攻撃に苦しめられるが、中盤では優位に立ってこれに応戦する。しかし、後半立ち上がりに失点。反撃を試みるが得点にはつながらず敗戦。混戦となった[[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|最終予選]]は6チーム中5位という結果に終わった。一時は勝ち抜けに必要な3位内に入った日本であったが、「引き分けでも[[OK (表現)|OK]]」という有利な状況になった第4戦の[[U-23サッカー大韓民国代表|韓国]]戦、0-0で迎えた終了間際に痛恨の失点を喫し惜敗したのが致命傷となり、24年ぶりの[[1992年バルセロナオリンピックにおけるサッカー競技|五輪出場]]は果たせなかった。後のインタビューで澤登は、「(大会を振り返って)純粋に力不足それだけです。個々のレベルが低すぎました」と語っている。澤登はバルセロナ五輪予選11試合出場3得点。全試合に出場し、[[セットプレー]]等から[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]をマーク。[[オリンピックサッカー競技・日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|バルセロナ五輪日本代表]]から唯一人、翌年に行われた[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選]]で試合出場を果たした。また、バルセロナ五輪・最終予選で中盤でコンビを組んだ[[永井秀樹]]とは4年後、クラブチームで再びコンビを組み、[[清水エスパルス]]を[[1996年のJリーグカップ|初タイトル]]へと導いた<ref>[[1996年のJリーグカップ]]決勝では共にアシストを記録し、初優勝に貢献した。</ref>。
 
===清水エスパルス・日本代表===
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[[サッカー日本代表|日本代表]]では、[[ミッドフィールダー#サイド・ミッドフィールダー|サイドハーフ]]や[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]として出場したことがある。
 
[[プレースキック (サッカー)|プレースキック]]<ref>J1リーグ戦の[[プレースキック (サッカー)|プレースキック]]の得点は20得点(直接CK PK含む)。リーグ戦以外にもカップ戦やチャンピオンシップ等での得点があった。また、Jリーグの公式記録としては残っていないが[[フリーキック (サッカー)|FK]]や[[コーナーキック|CK]]から数多くの[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]をマークした。</ref>を得意とし、[[フリーキック (サッカー)|FK]]や[[コーナーキック|CK]]のキッカーを務めることが多かった。プレースタイルは、精度の高いキックから攻撃を組み立てる[[司令塔 (スポーツ)|司令塔]]であったが、2列目からの飛び出しでゴールに直結するプレーや、自らゴールを決めることも多かった。高いテクニックを持ち、中盤では安定感のあるプレーを見せたが、自他共に認める負けず嫌いであり、ときには闘志溢れるプレーでゴールを狙い、会場を沸かせ、チームを救った。[[キャプテンシー]]と[[リーダーシップ]]を兼ね備え、チームメイトからの信頼も厚く、[[オリンピックサッカー競技・日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|五輪代表]]や、[[清水エスパルス|清水]]では[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]としてチームを牽引した。
 
利き足は右であるが、状況に応じて逆足で、[[セットプレー]]を蹴ることがあった。
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*日本代表で長年背番号10を付けていた[[ラモス瑠偉]]は、10番の後継者として澤登を指名していた。
*[[1994年]]の[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]ジャパンの初陣となった大会では、日本代表で10番をつけ、[[ジャン=ピエール・パパン|パパン]]、[[エリック・カントナ|カントナ]]、[[ユーリ・ジョルカエフ|ジョルカエフ]]、[[ディディエ・デシャン|デシャン]]、[[マルセル・デサイー|デサイー]]を擁する[[サッカーフランス代表|フランス代表]]と対戦した。また、この試合は[[ダヴィド・ジノラ]]も出場しており、[[パリの悲劇|パルク・デ・プランスの悲劇]]を経験したメンバーと、澤登のほか、[[三浦知良]]、[[柱谷哲二]]、[[長谷川健太]]といった[[ドーハの悲劇]]を経験したメンバーの対決ともなった。
*[[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナ五輪予選]]ではキャプテンを務め、背番号10番を背負って、[[下川健一]]、[[名良橋晃]]、[[小村徳男]]、[[相馬直樹]]、[[永山邦夫]]、[[石川康]]、[[名塚善寛]]、[[原田武男]]、[[永井秀樹]]、[[藤吉信次]]、[[藤田俊哉]]、[[名波浩]]、[[三浦文丈]]、[[神野卓哉]]らと共に戦った。また、[[U-23サッカー日本代表]]において初めて背番号10番を付けた選手ともなった。
'''ハットトリックPK'''
*[[1988年]]7月4日、第26回[[AFC U-19選手権|アジアユース選手権]]の予選第3戦・マレーシア戦が[[京都]]・久御山中央公園サッカー場で行われた。[[U-20サッカー日本代表|日本ユース]]は前半3分に[[池田伸康]]が先制点を挙げると、テンポの良いパスワークで試合の主導権を握り、鋭い動きだしを見せ、15分に[[三浦文丈]]、31分に[[中村忠 (サッカー選手)|中村忠]]が追加点。40分には、澤登が相手[[ファウル (サッカー)|ファウル]]から得た[[ペナルティキック|PK]]を決め、4-0で前半終了。後半に入っても勢いは衰えず、48分に[[服部浩紀]]が追加点を挙げ、日本ユースが5点のリードを奪う。[[サッカーマレーシア代表|マレーシア]]ユースは、DFの主力選手の出場停止の影響もあり守備が乱れ、焦りからかファウルが増え、63分、73分にペナルティエリア内でファウルを犯しPKに。澤登が2本とも[[ペナルティキック]]を決め、この日3点目をマーク。PKだけで[[ハットトリック]]という珍しい記録を達成した。日本ユースが7-0で勝利し、[[カタール]]・[[ドーハ]]で行われる決勝大会進出が決まった。
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=== 出場大会など ===
*[[1988年]] - [[AFC U-19選手権|AFCユース選手権]]
*[[1991年]] - [[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナオリンピックアジア1次予選]]
*[[1992年]] - [[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナオリンピックアジア最終予選]]
*[[1993年]] - [[ルナー・ニューイヤー・カップ|カールスバーグカップ]](日本代表B)
*1993年 - [[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選]]
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=== 試合数 ===
*U-20日本代表 {{0}}6試合 5得点(1988 [[AFC U-19選手権|AFCユース選手権]])
*U-23日本代表 11試合 3得点(1991-1992 [[1992年バルセロナオリンピックサッカー競技・アジア予選|バルセロナ五輪予選]])
*日本代表 国際Aマッチ 16試合 3得点(1993-2000)<ref name=daihyo/>