「ベルンハルド・カールグレン」の版間の差分

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==生涯==
[[ヨンショーピング市|ヨンショーピング]]出身。カールグレンの学術論文は、16歳の時に[[ダーラナ地方]]の[[方言]]について記したものが最初である。その後は1907年から1909年まで[[ウプサラ大学]]のユハン・ルンデル([[:sv:Johan August Lundell|Johan August Lundell]])教授に師事し、[[ロシア語]]を専攻した。彼は比較音声学に関心を持っていた[[スラヴ語]]学者であり、そのためかカールグレンは、当時ほとんど行われていなかった比較歴史音声学の手法を用いた中国語研究に携わる事を決意する。しかしスウェーデンには中国語を学べる場所がなく、[[サンクトペテルブルク]]でA. I. イワノフ([[w:Aleksei Ivanovich Ivanov|Aleksei Ivanovich Ivanov]])教授について二ヶ月間中国語を学ぶこととなった。その後は1910年から1912年の間、[[中国]]に滞在して中国語を学ぶとともに、24種の方言について音声学的な記録を残した。そして1912年1月、ヨーロッパに戻ると[[ロンドン]]次いで[[パリ]]に滞在し、1915年にはウプサラで博士論文を書いている。この論文は、著作の多くを[[英語]]で著したカールグレンには珍しく、[[フランス語]]で書かれた。
 
その後1939年から1959年まで[[ストックホルム]]の[[東洋博物館]]([[:sv:Östasiatiska museet|Östasiatiska Museet]])の館長を務めた。この博物館は1926年、カールグレンの前任で中国考古学・[[地質学]]の大家でもある[[ユハン・アンデショーン]]が1920年代になした中国先史時代考古学についての先駆的業績のために作られ、後に先史時代の中国に限らず、広い時代および地域を扱うようになっていたものである。またカールグレンは長きにわたってこのアンデショーンと親しく交流を持ち、彼が務めていた東洋博物館の年報(Bulletin MFEA、1929~)の編集も引き継ぐこととなった。カールグレンは1970年代までこの仕事を続けるとともに、自身も著作の多くをこの年報や、博物館の出した[[モノグラフ]]のなかで発表している。