「ペドロ3世 (アラゴン王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎家系図: 仮リンク解消
解消済み仮リンク アラゴン十字軍 の内部リンク化、仮リンクの曖昧さ回避
47行目:
=== 国外での戦争 ===
[[File:Pedro III el Grande en el collado de las Panizas.jpg|thumb|left|マリアーノ・バルバサン『ペドロ3世』]]
ハイメ1世の治世にアラゴン連合王国の傘下に入っていた[[チュニジア]]の[[ハフス朝]]は、1277年に第2代君主の[[アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル]]が死去すると、アラゴン連合王国の宗主権のくびきを投げた{{Sfn|Chaytor|1933|p=101}}。ペドロ3世はチュニジアの宗主権を再取得するために、1280年にクンラッド・ダ・リャンサが率いる最初の遠征隊を[[チュニス]]に送った{{Sfn|Chaytor|1933|p=97}}。1281年には[[コンスタンティーヌ]]の統治者の代わりにチュニジアを侵略するために、ペドロ3世自身が140隻の艦隊と15,000人の兵士を引き連れてチュニジアに向けて出港し{{Sfn|Chaytor|1933|p=102}}、艦隊は1282年に{{仮リンク|コロ (アルジェリア)|en|Collo|label=コロ|FIXME=1}}から上陸した。
[[File:Arrivo aragonesi.jpg|right|thumb|チュニジアに上陸したペドロ3世の艦隊]]
1282年3月30日にイタリアの[[シチリア王国]]で[[シチリアの晩祷]]事件が起こると、アラゴン連合王国の軍隊はシチリア大使から、[[フランス王国|フランス]]王家の傍系である[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]のシチリア王[[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世]](アンジュー伯シャルル1世)の王座を奪うことを要請された。ペドロ3世自身もプッリャ公[[ロベルト・イル・グイスカルド]]の娘マファルダの血を引く相続人であった。1127年のプッリャ公グリエルモ2世の死去で[[プッリャとカラブリアの伯爵と公爵一覧|プッリャ公爵]]家が途絶えると、一見するとマファルダの相続人がロベルト・イル・グイスカルドとその妻シジェルガイタの「正当な」相続人となった。このようにペドロ3世は南イタリアの[[オートヴィル朝]](ノルマン朝)の潜在的な[[王位請求者]]であった。より直接的には、ペドロ3世の王妃[[コンスタンサ・デ・シシリア]]がシチリア王[[マンフレーディ]]の王女であり、そのためにペドロ3世はマンフレーディの相続人であった。以後の500年間、アラゴン王家とその相続人は、シチリア王国とその後継王国に対して執拗に王位継承の追及を行った。
64行目:
=== アラゴン十字軍 ===
[[File:Rey Pedro III Aragón.jpg|thumb|right|ジョヴァンニ・ヴィリャニの年代記に書かれたペドロ3世(14世紀初頭)]]
1284年、フランス王フィリップ3世とヴァロワ伯[[シャルル (ヴァロワ伯)|シャルル]]が率いるフランス軍が初めて[[ルシヨン]]地方に進軍した({{仮リンク|[[アラゴン十字軍|en|Aragonese Crusade}}]])。この軍隊は16,000の騎兵、17,000の石弓兵、10万の歩兵からなっており、南フランスの港に100隻の船が停泊していた{{Sfn|Harris|2003|p= 106}}。フランス軍はマヨルカ王ジャウメ2世の支援を受けていたものの、マヨルカ王国の地元住民はフランス軍に反発した。[[エルヌ]]の町はルシヨン伯{{仮リンク|ヌーニョ・サンチェス|en|Nuño Sánchez}}の私生児を中心として勇敢にも守りを固めたが、結局はフランス王室の力が勝って大聖堂を焼いた。
 
1285年6月以降、フィリップ3世は[[ジローナ]]に入城する前に町を包囲した。激しい抵抗に遭ったものの、ジローナもフランス軍の前に陥落した。実際には王冠がなかったものの、シャルルはジローナでヴァロワ伯の戴冠式を行っている。9月4日にはフランス軍とシチリア王国・アラゴン王国連合軍の間で{{仮リンク|フルミゲスの戦い|en|Battle of Les Formigues}}が行われたが、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍が率いる連合軍がフランス軍に勝利した。これに加えて、フランス軍の野営地は[[赤痢]]の流行にも苦しめられ、フィリップ3世自身も赤痢にかかった。ナバラ王フェリペ1世はフランス王国の相続人であり、アラゴン王家が自国領や[[ピレネー山脈]]を通って自由に通行できることを見返りに、ナバラ王国を攻撃しないようペドロ3世と交渉した。9月30日から10月1日には{{仮リンク|パニサルス峠の戦い|en|Battle of the Col de Panissars}}でアラゴン軍がフランス軍に勝利した。フィリップ1世は10月5日、マヨルカ王国のイベリア半島領土の首都である[[ペルピニャン]]で病死し、[[ナルボンヌ]]に埋葬された。ジャウメ2世自身はペドロ3世に対する恐れから降伏し、兄であるペドロ3世に仕えると宣言した。