「露仏同盟」の版間の差分

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==真の火薬庫イスタンブール==
フランスがベルギー投資を続けるには、ドイツに払った賠償金50億フランの代償をどこかで得る必要があった。それが[[オスマン債務管理局]]を通した地中海開発事業である。オスマン帝国の財務を握っていたカモンド家、借款を使って[[スエズ運河|スエズ利権]]を手にした[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ首相]]、いずれにも顔の利く[[ロスチャイルド家]]をチャンネルとして、フランスとイギリスはオスマン分割に精を出した。壮大なビジネスであったから、ドイツはロシア国債の引受を断ってでも資金を振り向け、先客の英仏に嫌悪されながら、オーストリアに近いドイツ南部諸邦の利益となる範囲で、[[アナトリア]]の鉄道事業等に食い込んでいった。
 
1888年11月12日の機密第73号電報で、募集額5億フラン中、フランス銀行団が3億2500万フランを引き受け、残りはロンドン・[[アムステルダム]]・ベルリンおよび[[サンクトペテルブルク]]数行のシンジケートが引受けると発電された<ref>サンクトペテルブルク発、ロシア駐在フランス大使からフランス外務大臣宛</ref>。ロシアは翌年にも7億フランと12億フランの[[外債]]をパリ証券取引所で募集し、引き受け手を見つけることができた。1890年、ドイツ帝国の宰相であったビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが([[ビスマルク体制]]参照)、この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そして、1887年より継続していた[[独露再保障条約]]が更新されないことになった。1891年、[[金銀比価]]が元に戻れないような勢いで開き始め、[[大不況]]のクライマックスがドイツにそびえるユリウスの塔([[:de:Juliusturm|Juliusturm]], 賠償金の一部を保管)を輝かせた。