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'''園田 義男'''(そのだ よしお、[[1945年]][[8月30日]] - [[2018年]][[1月29日]]<ref name="sponichi_20180130" />)は[[日本]]の[[柔道家]][[福岡工業大学附属城東高等学校|福岡工大付属城東高校講道館]]前校長<ref>9段)。[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/judo/news/20090303/20090303_0003.shtml ヤワラちゃんの恩師 校長に] [[西日本新聞]] 2009年3月3日</ref>。身長170cm。得意技大外刈<ref>「新装版 柔道 体型別 技の大百科 第2巻」[[ベースボ1976年モントリオールマガジン社]] 13頁 ISBN 978-4-583-10319-8</ref>。弟はオリンピック|モントリオール五輪]][[金メダル|金メダリスト]]の[[園田勇]]。
 
[[福岡工業大学]]在学中に[[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]]や[[ユニバーシアード]]等で優勝を果たし、社会人になってからは[[メキシコシティー]]で開催の[[世界柔道選手権大会|世界選手権大会]]で弟の勇とともに兄弟同時優勝を成し遂げた。引退後は指導者として、[[福岡工業大学附属城東高等学校|福岡工大付属城東高校]]で[[谷亮子]]や[[日下部基栄]]等を育てた事でも有名。のち同校の校長を務めた。[[身長]]167cm<ref name="近代柔道200605">{{Cite news|author = 柳川悠二|authorlink=|url=|title = 転機-あの試合、あの言葉 第46回 園田義男 -指導者として自信を深めた、田村との密度の濃い3年間-|newspaper = [[近代柔道]](2006年5月号)、120-123頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 2006-04-22|accessdate=}}</ref>。得意技は[[大外刈]]<ref>「新装版 柔道 体型別 技の大百科 第2巻」[[ベースボール・マガジン社]] 13頁 ISBN 978-4-583-10319-8</ref>。
 
== 経歴 ==
[[終戦]]直後の[[1945年]]8月、[[福岡県]][[山門郡]][[三橋町]](現・[[柳川市]])にて5人兄姉(4男1女)の3男として生まれる<ref name="近代柔道200605"/>。実家は[[農業]]・[[養豚]]を営む家柄で、[[父親]]は厳格で典型的な[[亭主関白]]であった<ref name="近代柔道200605"/>。園田は生まれながらに病弱で、終戦の混乱期もあって周囲から「いっその事、(義男を)殺してしまってはどうか」と進言された事もあったという<ref name="近代柔道200605"/>。
[[福岡県]][[三橋町|山門郡三橋町]] (現[[柳川市]])出身。[[福岡工業大学附属城東高等学校|福岡電波高校]]を卒業して、[[福岡工業大学]]進学後は学生選手権で優勝を果たす。社会人になってからは、メキシコシティーでの世界選手権で弟の勇とともに兄弟同時優勝を成し遂げる。引退後は[[谷亮子]]や[[日下部基栄]]などを育てたことで有名である。
幼少時より、農業の[[肥料]]にする残飯を近所から収集する作業を手伝っていたが、それでも兄弟の中では一際小柄で、また病弱なのも相変わらずで、見かねた父親からは厳しく叱咤される事もあった<ref name="近代柔道200605"/>。小学生の頃、[[風邪]]をひいて学校を休んでいた時に、[[弟]]の[[園田勇|勇]]が同じ布団に潜り込んできて一緒に遊んでいると、これを見つけた父親が激怒し、裸にされて[[雪]]の中に放り出された事があったという<ref name="近代柔道200605"/>。
 
地元の[[柳川市立三橋中学校|市立三橋中学校]]に入学すると、[[柔道]]をやっていた2つ年上の二男・正義の影響で[[柔道部]]に入部した<ref name="近代柔道200605"/><ref name="機関誌201804">{{Cite news|author = [[泉麻生]]|authorlink=|url=|title = 故 園田義男九段のご逝去を悼んで|newspaper = [[柔道 (雑誌) |機関誌「柔道」]](2018年4月号)、42-43頁|publisher = 財団法人[[講道館]]|date = 2018-04-01|accessdate=}}</ref>。入部当初は同級生にも全く歯が立たなかったが、稽古に励むと次第に天賦の才が開花し、中学3年次には県大会個人戦等で健闘を見せている。この頃には、父親も仕事の合間に試合を観に来てくれたという<ref name="近代柔道200605"/>。県大会後に[[柳川高等学校|柳川高校]]と[[福岡工業大学附属城東高等学校|福岡電波高校]](現・福岡工業大学附属城東高校)から誘いを受け、父の勧めで福岡電波高校に進学した{{Refnest|group="注釈"|[[柳川高校]]に進学した[[兄]]が[[柔道]]であまり結果を残していなかったのに加え、当時の[[福岡工業大学附属城東高等学校|福岡電波高校]]は新興学校で、若い指導者の元でこれから新たな[[歴史]]を作っていくという環境が父親の判断材料となったようで、「兄が達成できなかった夢を成し遂げなさい」と言われたという<ref name="近代柔道200605"/>。}}。
2018年1月29日午後7時49分([[日本標準時|JST]])、[[大動脈瘤]]破裂により福岡県[[みやま市]]内の病院で逝去。72歳没<ref name="sponichi_20180130" >{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/01/30/kiji/20180130s00006000115000c.html|date=2018-01-30|title=園田義男氏死去、72歳 谷亮子さん指導の柔道家|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2018-01-30}}</ref>。
 
[[1962年]]に高校に進学すると、1年後には弟の勇もこれに続き、部活動では互いに負けられまいと切磋琢磨しあった。2人で乱取を始めると30分以上続けてしまう事もしばしばであったという<ref name="近代柔道200605"/>。
==主な戦績==
2年次には地元・[[福岡市|福岡]]で開催の[[金鷲旗全国高等学校柔道大会|金鷲旗大会]]で優勝を果たし、3年次には部の主将を任ぜられた。
*[[1965年]] - [[全日本学生選手権]] 優勝
福岡電波高校を卒業しそのまま[[福岡工業大学|電子工業大学]](現・福岡工業大学)に進学すると、[[1965年]]11月の第17回[[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]](軽量級)で優勝。同大会を地方大学の学生が制すのは初めての事であった。[[1966年]]6月に[[世界学生柔道選手権大会|世界学生選手権大会]]の軽中量級で優勝すると<!--福岡工業大学HP(http://www.fit.ac.jp/newsrelease/archives/82)では68年大会も優勝と記されているが、老松信一著『柔道百年』によれば、優勝したのは水信健3段と記されている。--><ref name="機関誌201804"/>、同年8月の[[全日本選抜柔道体重別選手権大会|全日本選抜体重別選手権大会]]で3位に入りシニアでも存在感を示した。[[1967年]]には[[ユニバーシアード柔道競技|柔道競技]]が採用されたばかりの[[1967年夏季ユニバーシアード|第5回ユニバーシアード]]で軽量級の王者となって、中量級王者となった勇と共に、“'''園田兄弟'''”の名は世界の柔道界に広く知られる所となった<ref name="近代柔道200605"/>。
*[[1967年]] - [[ユニバーシアード]] 優勝
 
*[[1969年]] - [[世界柔道選手権大会]] 優勝
[[1969年]]に大学を卒業すると、福岡を離れて[[大阪府|大阪]]に居を移して日本運送に就職<ref name="機関誌201804"/>。同年10月の[[1969年世界柔道選手権大会|第6回世界選手権大会]]に照準を定めた園田は8月の全日本選抜体重別選手権大会で3位に入り、弟の勇と共に世界選手権大会の代表に選出された。大会では軽量級の決勝戦で[[天理大学]]学生の[[野村豊和]]を退けて[[金メダル]]を獲得。弟の勇も中量級を制して、世界大会で初の兄弟優勝という快挙を成し遂げた{{Refnest|group="注釈"|のち[[1993年]]の[[1993年世界柔道選手権大会|第18回大会]]で[[中村佳央]]・[[中村行成|行成]]兄弟がこれに続いた。}}。
[[1968年]]の[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティー五輪]]では実施競技として採用されなかった柔道が、[[1972年]]の[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]で復活する事になると、園田はその代表選考となる同年7月の全日本選抜体重別選手権大会に出場。しかし、世界大会後に不摂生生活を繰り返し、練習も疎かになっていた園田は3位に食い込むのがやっとであった<ref name="近代柔道200605"/>。この時の心境について、園田は後に雑誌『[[近代柔道]]』の[[インタビュー]]で「世界選手権で優勝して目標を達成した時、私の選手としての柔道人生は終わったようなものだった」「負けた悔しさは無かった。本当に自分を追い込んで練習してたなら悔しかっただろうけど、あんな状態だったから仕方ない」と述懐している<ref name="近代柔道200605"/>。
 
福岡電波高校が福岡工業大学附属高等学校と改称した頃、嘗(かつ)て生徒数5,000人近くを誇った母校は同約200人にまで減少し、経営と教育環境の立て直しが急務となっていた<ref name="近代柔道200605"/>。柔道部の再興を請われた園田は、[[1976年]]に日本運送を辞して福岡に戻り、同校の体育教師および柔道部指導員としてその任に当たる事となった<ref name="近代柔道200605"/>。
 
10年ほど後進の指導に汗を流し、次第に生徒が集まって全国大会にも出場する選手が出てきた頃、福岡市の東福岡柔道教室に息子を通させていた弟の勇から「面白い[[少女|女の子]]がいる」と話を聞いた<ref name="近代柔道200605"/>。小さな体で大きな男子を次々と投げ飛ばすその女子は、後に五輪と世界選手権大会と合わせてを9度制す[[谷亮子|田村亮子]]であった。試合を観て園田は「育て甲斐がある選手だと思った」「この子なら、女子選手でも世間の注目を集められるんじゃないかと思った」と感じたという<ref name="近代柔道200605"/>。園田は早速、福岡工大附属高校への田村の入学を見据え[[1988年]]にはに女子柔道部を設立<ref name="近代柔道200605"/>。
[[1990年]]に田村が中学3年生ながら[[福岡国際女子柔道選手権大会|福岡国際選手権大会]]を制すと、全国の強豪校が挙(こぞ)って田村の勧誘に動いた。そのような中で園田は、福岡から世界を目指す事の意義と、それが地方にいる日本の柔道選手達にどれだけ勇気を与える事になるかを、自身の経験も交えながら田村に説得したという<ref name="近代柔道200605"/>。
 
そのような甲斐もあり、[[1991年]]に田村が園田の元に入部すると、以後3年間は通常の練習に加えて、部活後に[[マンツーマン]]での打込・投込を行って、殆ど付きっ切りで指導を行った。「最初は練習メニューで悩んだりもしたが、自分の体を投げ出して、田村の成長を感じ取っていく指導法しかなかった」と園田<ref name="近代柔道200605"/>。朝練で寝惚けた顔は見せれないため、夜更かしも趣味の[[麻雀]]も断ち切るなど、園田自身も自重した生活を送るようになったという<ref name="近代柔道200605"/>。
この高校3年間で田村は[[1991年]]の[[1991年世界柔道選手権大会|第17回世界選手権大会]]で[[銅メダル]]、[[1992年|翌92年]]の[[1992年バルセロナオリンピックの柔道競技|バルセロナ五輪]]で[[銀メダル]]を獲得し、3年次の[[1993年]]には[[1993年世界柔道選手権大会|第18回世界選手権大会]]で[[金メダル]]を獲得して世界女王に登りつめた{{Refnest|group="注釈"|園田は[[谷亮子|田村亮子]]の3年間の指導を振り返り、1992年に[[1992年バルセロナオリンピックの柔道競技|バルセロナで開催の五輪]]の決勝戦で[[フランス]]の[[セシル・ノバック]]に僅差で敗れた事を、悔やまれる一戦として挙げていた<ref name="近代柔道200605"/>。この大会で田村は、当時最強の女子柔道家として“クイーン・オブ・ザ・ジュードー”の名を欲しいままにしていた[[イギリス]]の[[カレン・ブリッグス]]を準決勝戦であっさり降すと、その試合後に園田は田村の[[金メダル]]を確信し、1年前の[[世界柔道選手権大会|世界選手権大会]]でブリッグスに敗れて以来その対策を園田と共に研究してきた田村自身も雪辱を果たした安堵から、[[涙]]を流して喜んだ<ref name="近代柔道200605"/>。その気の緩みからか決勝戦ではノバックに敗れてしまい、園田は「指導者というのは常にベストの気持ちを選手に保たせながら試合に臨まなければならない」「試合前にビンタでもして、亮子の気迫を引き出しながら試合に導いてやるべきだった。この時の失敗が、その後の指導の糧となった」と反省しきりであった<ref name="近代柔道200605"/>。}}。このほか、[[福岡国際女子柔道選手権大会|福岡国際女子選手権大会]]や[[全日本選抜柔道体重別選手権大会|全日本選抜体重別選手権大会]]では3連覇を果たしている。
園田は「口だけで指導するのではなく、自分の後ろ姿を見ながら生徒が育ってくれれば良いなと思って、全ての行動を率先してやった」と述べ、「体を張って選手の潜在能力を引き出す、それが指導者」と続けるように、何度も田村に投げ付けられる姿は[[テレビ]]で幾度となく放映されて世間の[[居間|お茶の間]]でも広く知られた<ref name="近代柔道200605"/>。
 
田村の卒業後、他の生徒達を放ったらかしにしてしまった反省から園田は、団体戦で日本一を目指すチーム作りに勤しんだ<ref name="近代柔道200605"/>。口数は少ないながらも、田村の時と同様に常に自分の体を張る指導スタイルで、道場内には園田の「もういっちょ、もういっちょ」の掛け声と共に、その体(たい)が[[畳]]に叩き付けられる音が響いていた<ref name="機関誌201804"/>。園田の座右の銘“克って勝つ{{Refnest|group="注釈"|一日一日を全力で己に打ち勝てれば、自ずと試合での結果(勝利)も付いてくる、の意。}}”に鼓舞された部員達は、自然と意識が向上し稽古にも熱が入っていったという<ref name="機関誌201804"/>。
[[1995年]]の[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]]団体戦で初出場・初優勝を成し遂げ、[[金鷲旗全国高等学校柔道大会|金鷲旗]]でも95年に準優勝、[[1996年|翌96年]]に優勝を果たした。また、その主軸選手として活躍した[[1994年]]入学の[[日下部基栄]]も、[[全国高等学校柔道選手権大会|全国高等学校選手権大会]]の個人戦で2年次・3年次に大会を連覇している。
 
[[2000年]]の[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]では、教え子の田村・日下部が揃って[[メダル]]を獲得。田村が決勝戦後に畳を下りた後、[[涙]]を流しながら園田の胸に飛び込んできたシーンは多くの柔道ファンに感動を与えた。園田も後に「自分の指導が間違っていなかった事を証明してくれたのだから、2人には感謝したい」と述べていた<ref name="近代柔道200605"/>。
 
その後も、福岡工業大学の理事・評議員や附属城東高校の校長代理として永く学校運営に携わる傍ら、柔道部監督や部長として後進の育成に汗を流し、多くの女子選手を育てた。常に全力の稽古ではあったが、一方で、畳を下りたら「優しく思い遣りのある女性である事」「身嗜みを大切に、品格を持つ事」を常々生徒達に諭していたという<ref name="機関誌201804"/>。
[[2006年]]に行われたインタビューで、それまでの自身の人生を振り返り「亮子との出会いと指導の経験は、まさしく私の柔道人生の一大転機でした」と園田。「育児休業中の谷([[旧姓]]・田村)亮子が復帰して先生との練習を望んだら?」との問いに対し、当時[[還暦]]を迎えていた園田は「もう無理じゃないかな…でも老体にムチを打ってまた投げられるんだろうね」と笑っていた<ref name="近代柔道200605"/>。
 
その後[[2009年]]4月から[[2016年]]8月には福岡工業大学附属城東高校の校長を務め<ref name="機関誌201804"/><ref name="西日本新聞20090303">{{Cite news|athor=|authorlink=|url=|title = ヤワラちゃんの恩師 校長に 福工大城東高 園田義男さん「しつけ大事に」|newspaper = [[西日本新聞]]|publisher = [[西日本新聞社]]|date = 2009-03-03|accessdate=}}</ref>、園田は柔道のみならず広く青少年育成の陣頭に立って尽力した。この間[[2014年]]には、[[息子]]であり教え子の1人でもある長男・義大に柔道部監督を任せている<ref name="機関誌201804"/><ref name="西日本新聞20180723">{{Cite news|athor=|authorlink=|url=|title = 恩師の父にささぐ白星 福岡工大城東男子3回戦進出 園田監督、教え胸に|newspaper = [[西日本新聞]]|publisher = [[西日本新聞社]]|date = 2018-07-03|accessdate=}}</ref>。
[[2018年]][[1月29日]][[午前と午後|午後]]7時49分([[日本標準時|JST]])[[大動脈瘤]]破裂によりのため、福岡県[[みやま市]]内の病院で逝去。72歳没した<ref name="sponichi_20180130スポニチ20180130" >{{Cite webnews|athor=|authorlink=|url =http https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/01/30/kiji/20180130s00006000115000c.html|date=2018-01-30|title = 園田義男氏死去、72歳 谷亮子さん指導の柔道家|newspaper = [[スポーツニッポン]]|publisher = スポーツニッポン新聞社|date = 2018-01-30|accessdate = 2018-01-30}}</ref>。72歳没
 
== 主な戦績 ==
*[[1965年]] - [[全日本学生柔道選手権大会|全日本学生選手権大会]] (軽量級) 優勝
*[[1966年]] - [[世界学生柔道選手権大会|世界学生選手権大会]](軽中量級) 優勝
::: - [[全日本選抜柔道体重別選手権大会|全日本選抜体重別選手権大会]](軽量級) 3位
*[[1967年]] - [[ユニバーシアード]](軽量級) 優勝
*[[1968年]] - [[全日本選抜柔道体重別選手権大会|全日本選抜体重別選手権大会]](軽量級) 3位
*[[1969年]] - [[世界柔道選手権大会|世界選手権大会]](軽量級) 優勝
*[[1972年]] - [[全日本選抜柔道体重別選手権大会|全日本選抜体重別選手権大会]](軽量級) 3位
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
==外部リンク 関連項目 ==
* [[柔道家一覧]]
* [[福岡県出身の人物一覧]]
* [[福岡工業大学の人物一覧]]
 
== 外部リンク ==
* {{JudoInside|5482|園田義男}}
{{世界柔道選手権優勝者-男子66kg級|63}}
{{デフォルトソート:そのだ よしお}}
[[Category:日本の男子柔道家]]
[[Category:日本の柔道指導者]]
[[Category:福岡工業大学附属城東高等学校出身の人物]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:福岡工業大学附属城東高等学校出身の人物]]
[[Category:福岡工業大学出身の人物]]
[[Category:1945年生]]
[[Category:2018年没]]