「コンスタンティノス7世」の版間の差分

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| 画像サイズ = 150px
| 画像説明 = [[イエス・キリスト]]に加冠されるコンスタンティノス7世<br />(10世紀の[[象牙]]浮彫 ロシア・[[プーシキン美術館]]蔵)
| 在位 = [[913年]][[6月6日]] - [[920年]][[94412月17日]]<br/>[[945]][[1月27日]] - [[959年]][[11月9日]]
| 戴冠日 =
| 別号 =共同皇帝([[911年]] - [[912年]]、[[920年]] - [[944年]])
| 全名 = コンスタンティノス
| 出生日 = [[905年]][[9月2日]](?)
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| 父親 = [[レオーン6世]]
| 母親 = ゾエ・カルボノプシナ
}}'''コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”<ref>古典ギリシャ語に基づく慣用表記は[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]/[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中央公論新社]])に拠った。</ref>'''(<small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|'''Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος''', Kōnstantinos VII ho Porphyrogennētos}}, [[905年]]? - [[959年]][[11月9日]])は、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の[[皇帝]](在位:[[913年]] - [[920年]]、[[944945年]] - [[959年]] 共同皇帝:([[908年]] - [[913年]]、[[920年]] - [[944945年]] )。「ポルフュロゲネトス」は「緋色の産室生まれ(皇帝の嫡子)」を意味するあだ名(後述)。帝国史上随一の文人皇帝で、「[[マケドニア朝ルネサンス]]」と呼ばれる[[ビザンティン文化]]の黄金時代を築いた。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス7世“ポルフィロエニトス”」<ref>中世ギリシャ語表記は尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』([[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]])に拠った。</ref>となる。
 
== 生涯 ==
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[[920年]]になるとコンスタンティノスは正帝の座を追われ、ロマノスが正帝([[ロマノス1世レカペノス]])となった。さらにロマノスの長男クリストフォロスが序列第2位の皇帝(共同皇帝)となり、コンスタンティノスは正統皇室の嫡男にも関わらず序列第3位の共同皇帝にまで落とされてしまった。以後24年間ロマノスが帝国を統治し、父レオーン6世以上に学究肌だったコンスタンティノスはもっぱら読書や学術研究に没頭することになった。
 
[[944年]]、ロマノス1世はコンスタンティノス7世を後継者に指名した。既にクリストフォロスは病死しており、残る二人の息子をロマノスは評価していなかったのである。これにロマノスの次男・三男が反発して、同年12月に[[クーデター]]でロマノス1世を[[マルマラ海]]の海島へ追放した。二人は次にコンスタンティノスの追放を図ったが、ここで民衆の支持を受けていたコンスタンティノスは二人を逮捕させて追放。レカペノス家の勢力を一掃したコンスタンティノスは40代になってようやく実権を掌握することに成功した。
 
正帝の座を回復した後もコンスタンティノスは実際の政治は臣下に任せ、自らは引き続き学問研究に没頭した。彼の治世の下で学者が宮廷に集められて[[古代ギリシア]]文化の研究が進み、百科事典的な書物『抜粋』や農業書などが編纂された。コンスタンティノスは建築・音楽といった面に興味を持ち、教育にも力を入れた。また、自身も『[[バシレイオス1世]]伝』『[[テマ]]について』、および息子[[ロマノス2世]]のために書いた『{{仮リンク|帝国統治論|en|De Administrando Imperio}}』『{{仮リンク|儀式の書|en|De Ceremoniis}}』などの著作を残した。こうして、帝国は後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を迎えた。