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'''僧璨'''(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃) - [[大業]]2年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[606年]][[11月20日]]))は、中国・[[隋]]代の僧。[[禅宗]]の第三祖。「璨」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」のことである。唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]により『(鑑)智禅師』の諡を賜った
「璨」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」のことである。唐の玄宗皇帝により『(鑑)智禅師』の諡を賜った。
 
== 略歴 ==
『[[五灯会元]]』の一つ、『[[景徳傳燈録]]』第三巻に「'''三祖僧璨大師悟道因縁'''」と呼ばれる物語が伝わっている。
 
[[東魏]]の[[天平 (東魏)|天平]]2年([[525535年]])に当時、[[居士]]で重い疾病を患っていた僧璨が第二祖[[慧可]]と会いまみえ会話を交えた。そして、ついに[[悟り]]に至った。その後すぐに、光福寺で具足戒を受け、それ以後、彼の疾病はことごとく良くなり、ともに祖師([[達磨]])に二年間あまり仕えた、という物語である。
 
その悟道に至った日は、同年([[525(535]])'''3月18日'''であった。
 
禅の第二祖慧可と第三祖僧璨に関わる記述は『続高僧伝』第21巻にある『唐蘄州双峰山釈道信伝』に、「すでに()法を負っていることを聞き、それで いずことも知れぬ所から 向かい赴いて来た二僧が、[[汝南郡|舒州(現、]]皖公山([[安徽省]])の[[皖公安慶市]][[潜]]で修禅した」という趣旨の記述がある<ref>『[[続高僧伝]]』卷21「唐蘄州双峰山釈道信伝」“又有二僧 莫知何来 入舒州皖公山静修禅業 聞而往赴 便蒙受法”</ref>。
 
[[北斉]]の[[天保 (北斉)|天保]]3年 ([[552年]])[[慧可]]は、僧璨に[[衣法]]を授けた。僧璨は、当時すでに40歳を超えていた。
 
(衣法:伝法の信を表す袈裟を与える事。禅では、師匠が弟子に対し、法を伝えた証に衣を授ける。伝衣は同時に伝法でもあることを意味する。)
 
以後、彼は すぐに 舒州皖公山に隠居する。四度吹き荒れた[[三武一宗の法難]]の内の一つである、北周[[武帝 (北周)|武帝]]([[560年]]-[[578年]])の廃仏政策の時代へとなり、司空山(安徽省安慶市[[太湖岳西県]]司空山に隠居。居場所は常に定まっているという事は無かった。
 
そして、10年以上の年月に渡って、そのもとを訪れる者は無かった。
 
[[隋]]の時代、[[開皇]]十二12([[592年]])十四14歳の[[沙弥]] [[道信]] は弟子入りに来て、言った。
*道信“和尚様、何卒、慈悲たれ賜いて 悟りへの法門をほどき与え たまへ。”
*僧璨“誰があなたを縛ったか?”
*道信“縛った人はいません。”
*僧璨“では、今更 何を解くというのか?”
そこで[[道信]]は大悟した。
 
僧璨は道信に「[[妙法蓮華経]]」の“[[会三帰一]]”理論と仏法理論を伝授。このことが[[道信]]に与えた影響は極めて大きかった。
 
[[開皇]]十三13([[593年]])[[慧可]]入滅。道信の弟子入りと ほとんど、入れ違いのことだった。
 
[[道信]]は、修禅の労に服すこと 九年、後 [[吉州 (江西省)|吉州]]([[江西省]])にて戒受。僧璨は常に[[道信]]に玄々微妙たる禅の理、真髄を伝授し続けた。
 
時機成熟し以後、僧璨は[[道信]]に[[衣法]]。
 
その時、[[道信]]が読んだ偈は次の如きものであったことが今に伝わっている。「花の種、これ田地 田畑にて 瑞々しい若花を大地より生ずる。もし、種を蒔く者がいなければ、花々に満ちていた大地は (これから)生じることもなく尽きてしまう。(仏法もまた同じで、いまこそ 法をひろめなけえばならない)
 
羅浮山([[広東省]][[恵州市]][[博羅県]])に布教。道信は僧璨の唯一の弟子で、僧璨は彼に厚い期待を預けた。
 
二年後、僧璨は、もとの舒州に帰着した。
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多くの人々への説法後、大樹の下で言ったと言われる。
 
「生死のあり方は自由だ!(!(結跏趺坐して入滅される方も多い。しかし、私は今日立って歩み進むのだ!)!)
 
樹枝に手をかけ、立ったまま僧璨は臨終を迎えた。それは、隋の[[煬]]の代、大業2年(606(606)のことだった。
 
後の世、唐の玄宗皇帝は『智禅師』の「諡」(贈り名)を贈った。
 
== 著作 ==
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「信心銘」の撰者を僧璨に擬するのは、[[百丈懐海]](749年 - 814年)であり、それ以前には遡り得ない。時代が遡るほど、僧璨に関する伝記と呼べるようなものは少なくなる。
 
「[[菩提達磨]]を東伝の初祖とし、[[慧可]]を経て「[[東山法門]]」の人々に受け継がれた」とする禅の正系を強く結びつける上でも重要視されるのが、第三祖僧璨である。
 
== 資料 ==