「斎藤三郎 (文学・野球研究者)」の版間の差分

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== 功績 ==
日本への野球の伝来の年について野球史研究家として、現在の定説「明治5年説」を最初に提唱したのも斎藤である<ref name="弘田145" />。斎藤は野球史研究の先駆者として、それまでのあいまいな言い伝えではなく、書き残された資料によって、[[日本人]]が国内で初めて野球をプレーした時期を証明した<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。書物だけでは実感できないと明治時代の野球選手に体験談を聞いたり、戦時中さえ研究旅行を繰り返している<ref name="弘田145" />。野球への感謝と恩返しの気持ちから野球史を志したと語っている<ref name="弘田145" />。しかし、肩書きのない斎藤の明治5年渡来説を受け入れる者はほとんどおらず、それが広く受け入れられるようになるのは、彼が亡くなってから12年後、君島一郎の『日本野球創成期世記』(1972年)が出版されてからである<ref name="弘田145" />。同じく野球史研究家の弘田正典は長年の研究の結果、2000年([[平成]]12年)に明治5年渡来説は正確であると断言している<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.17,20</ref>。
 
『日本野球創成期世記』の君島一郎は1952年に「野球文献史話」を読んで明治5年渡来説を唱えた点に興味をひかれ、斎藤と初めて対面したが、集めてある資料が豊富なことと、野球に対する愛好と情熱が高いことに感心しており<ref name="君島187‐188" />、同書の[[奥付]]に「執筆にあたっては斎藤三郎筆の文献史話に負うところは多い。見解の相違もあるが、色々ヒントも得ている」「今後もしも日本野球の故事探求の志を有する方々があったら、是非にも彼斎藤三郎の二つの作(野球殿堂博物館に所蔵されている「野球文献史話」と『日本野球文献解題』)を一読されんことをお勧めする」と書いている<ref name="君島189" />。また、明治文化史研究家の[[横田順彌|横田順弥]]も「啄木と野球史に関しては、以後も斎藤以上の研究家の出現を見ていないといって過言ではない」と述べている<ref>[[#横田(1993)|横田(1993)]] p.73</ref>。
 
野球殿堂博物館に所蔵されている明治・大正・昭和前期の資料の半分は彼の蔵書といわれているが<ref name="2006年横田20" />、彼自身の黎明期日本の野球の著作に関しては、研究をまとめた薄冊のメモ書き程度のものを2冊、非売品として残しているだけである<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。なお、あとの半分は早稲田大学の名投手で[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りもしている、[[宝塚運動協会|日本最初のプロ野球チーム]]の創設者である[[河野安通志]]の蔵書といわれる<ref name="2006年横田20" />。