「加藤の乱」の版間の差分

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当時の加藤は改革派のイメージが強く(小渕とは財政に関して決定的に政策主張が違い、財政健全派や市場主義派に支持されていた)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また党内第二派閥で保守本流の[[宏池会]]会長や「[[YKK (政治同盟)|YKK]]の長男」として総裁候補一番手と認識されていた。しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕が倒れ、いわゆる[[五人組 (自由民主党 2000年)|五人組]]によって不透明な形で森総理が誕生する。
 
小渕再選前には、加藤は政界ではポスト小渕のNo.1候補と衆目一致するところであった。保守本流の派閥の長、橋本・小渕政権誕生への協力、幹事長としての新進党切り崩しの実績等があったためである。しかし、当時の加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいた。YKKとしての反竹下派の源流、宮沢内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発などからである。しかし、自身の首相形態に理想を求めすぎた為、就任が云わば先送りにされていた。森との順番的にれをとった加藤の焦りが極まる一方、森内閣は、[[神の国発言]]、[[中川秀直]][[官房長官]]のスキャンダルによる辞任などで、[[内閣支持率]]は低迷を続け、不人気がピークに達していた。
 
国民の支持が低い森内閣のままで[[第19回参議院議員通常選挙|2001年参院選]]に突入すると自民党が惨敗することが予想され、自民党が敗北した[[第18回参議院議員通常選挙|1998年参院選]]での非改選議員と合わせて与党が参議院過半数割れ([[ねじれ国会]])も懸念されていた。一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回人事での加藤派・山崎派の要望だった[[小里貞利]]の総務会長起用や[[保岡興治]]の閣僚入りを実現させたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとってはそれは自らの人気を下げる行為にしかならず、森とは距離を置いていた。