「野沢秀行」の版間の差分

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[[1977年]]に、[[大森隆志]]がアルバイトをしていた[[ライブハウス]]に出入りする内に大森と面識ができる。同年、[[ヤマハ]]主催のバンドコンテスト『[[EastWest|EastWest '77]]』にサザンの出場が決まった際、大森からの熱烈な勧誘があったが、野沢はセミプロであることを理由にあまり良い返事をしなかったという。野沢が参加しないままサザンはコンテストに出場しベストボーカリスト賞を受賞。デビューが決まる頃、急にサザンの[[レコーディング]]スタジオにも顔を出すようになり、その急激な態度の変化に当初メンバーは難色を示したが{{Refnest|group="注"|ただし、大森が語ったところによると、野沢が大森に「このバンドでパーマネントでやりたいと真剣に考えてる」と告げ、後日この旨を聞かされた桑田はそれに対して「ああそう?」と述べ、良いとも悪いとも言わなかったという<ref> [http://rooftop.cc/interview/170601120000.php?page=3 大森隆志×平野 悠 ー『Back to Shimokitazawa』開催記念特別対談(Rooftop2017年6月号) 3ページ]Rooftop </ref>。}}、最終的には『[[パーカッション]]が入れば、[[リトル・フィート]]と同じ人数・バンド編成になる』という理由で容認し、デビュー直前のサザンに加入。しかし、当時「毛ガニは音に対して非常にシビア」「“さすがプロのミュージシャンは違う”と思わずにはいられなかった」<ref>関口和之『突然ですがキリギリス』122頁、集英社文庫、1991年</ref>と思わせたのも事実である。
 
これらの経緯があり、[[1978年]]のデビューから3040年経った現在でも「正規メンバーとしては認めていない準メンバー」、「デビュー直前にいつの間にかメンバーに入っていた」と度々ネタにされるなど、他の場面でも弄られる事が多い。また、一説によると野沢をメンバーにするか否かの『毛ガニ欠席裁判』が他のメンバー5人で行われたが、結論がいまだに出ていないという。
 
[[1996年]]に行われたサザンの全国ツアー『[[平和の琉歌 〜Stadium Tour 1996 "ザ・ガールズ万座ビーチ" in 沖縄〜|ザ・ガールズ万座ビーチ]]』、[[2003年]]のツアー「SUMMER LIVE 2003『流石(SASが)だ真夏ツアー! あっっ!生。だが、SAS! 〜カーニバル出るバニーか!?〜』」、[[2005年]]のツアー『[[FILM KILLER STREET (Director's Cut) & LIVE at TOKYO DOME|Live Tour 2005 みんなが好きです!]]』は腰痛([[ヘルニア]])で休業<!--(1996年のツアーは[[今野多久郎]]が、2003年・2005年のツアーは[[三沢またろう]]が代役を務めた)-->。サザンのデビュー30周年である[[2008年]]も、腰を含めた体調が本調子ではないとの理由で、[[三沢またろう]]を代役に立てテレビ番組やライブへの出演は控えることとなった。同年のライブ『真夏の大感謝祭』でも腰痛のため欠席すると思われていたが、中盤の「[[I AM YOUR SINGER]]」で登場、5人でダンスを披露し、アンコールの「[[勝手にシンドバッド]]」以降パーカッションで参加した。ここでは自ら「正式準メンバー」と名乗っている。