「常陸山谷右エ門」の版間の差分

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=== 復帰~梅常陸時代 ===
復帰後は快進撃を続け、[[1899年]]1月場所で新入幕を果たすと8勝1分(無敗)の優勝相当成績を挙げる。1901年1月場所では関脇に昇進し、8勝1分で2度目の優勝相当成績を挙げ、[[大関]]に昇進。[[1903年]]1月場所はまたも1分無敗で3度目の優勝相当成績を挙げ、綱取りとなる5月場所は全勝のまま、9日目に[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷藤太郎]]との全勝対決となった<ref name="hitaume">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p21</ref>。立ち上がるや梅ヶ谷がもろ差しになり、常陸山は両閂になるも、梅ヶ谷は寄り進んで常陸山を土俵際に追い詰めた。土俵に詰まった常陸山は左右に振って右へ回り込み、左からおっつけ突き放し、そのままき続けて最後は迫撃の押しで正面土俵へ突き倒した<ref name="yokoshuna">『大相撲ジャーナル』2017年6月号42-43頁</ref>。この勝利によって全勝での優勝相当成績を挙げ、場所後に[[吉田司家]]から横綱免許の授与が決まった<ref name="yokoshuna"/>。ところが、常陸山はすぐに横綱昇進を承諾することなく考えた後、全勝対決で敗ったものの自身と同じ強さで観客を沸かせた梅ヶ谷の健闘を称え、「できれば、梅ヶ谷関と一緒に昇進をお願いします」と申し出た<ref name="hitatiyama"/>。しかし、当時は常陸山・梅ヶ谷が揃って横綱に昇進した場合、現役横綱の[[大砲万右エ門]]を入れて3横綱とバランスの悪い状態となってしまうため、協会も神経を使って正式に申請する前に、吉田司家で番頭役を担当していた清田直に取り次いで依頼した。その結果、常陸山・梅ヶ谷の同時昇進が認められたことで常陸山の器の大きさ・寛大な心が知れ渡ると同時に、歴代横綱としては常陸山が先であるという見方が存在したという。現在のように横綱が称号ではなく地位として確立されたのは、実質的にはこの常陸山・梅ヶ谷の同時昇進だったとされ、1909年から正式に規約が改正された。
 
梅ヶ谷藤太郎と競い合って精進し、揃って横綱に昇進したことから「'''梅常陸時代'''」と呼ばれ、明治時代後期の相撲黄金時代を築いた<ref name="hitaume"/>。