削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
26行目:
 
== 経歴 ==
[[応永]]14年([[1407年]])11月19日、[[足利義満]]の[[鹿苑寺]]において義満自身が[[烏帽子親]]となって[[元服]]が行われ、義満は[[偏諱]]として「義」の字を与えた。これは義資が義満の正室・[[日野康子]]の甥であったためであるが、武家で「義」の字を恒常的に与えられていたのは[[斯波氏]]のみであり{{Efn|因みにこの日は義資と同時に[[斯波義淳]]が元服している(「[[教言卿記]]」)。}}、公家に対しては摂関家の当主でさえ「満」の字しか与えられておらず、破格の厚遇であった。
 
[[足利義持]]の死後、その弟の[[青蓮院]]義円([[足利義教]])が後継者に選出されると、青蓮院を退出した義円の住まいとして自宅である裏松邸を提供した。また、義持の未亡人・[[日野栄子|栄子]]と協議して、妹・[[日野宗子|宗子]]を義教の正室としている。しかし、義教が本格的に政権を始動させると、義資は青蓮院門跡であった時代に不忠の咎があったとして所領を2ヶ所没収され、蟄居を命じられた。また宗子は義教と不仲であり[[永享]]3年([[1431年]])には離縁されている。その後、もう一人の妹[[日野重子|重子]]が義教の側室となった。