「王建 (前蜀)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 蜀を得る ===
[[許州]][[舞陽県|舞陽]](現在の[[河南省]][[漯河市]][[舞陽県]])に生まれる。若い頃は屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒であり、許州では'''賊王八'''と称されていた。
 
[[黄巣]]の乱が発生すると官軍に参加してその鎮圧に軍功を上げた。その後、朝廷の実力派[[宦官]]である[[田令孜]]の仮子(養子)となり、[[僖宗 (唐)|僖宗]]が[[四川省|蜀]]に脱出する際の功績により神策軍使、西川節度使、壁州節度使刺史などを歴任した。
 
王建は在地勢力の歓心を買い、自らの陣営に取り込むことで勢力を拡大し、[[文徳 (唐)|文徳]]元年([[888年]])には永平[[節度使]]に、[[大順 (唐)|大順]]2年([[891年]])には仮父を殺害して[[成都市|成都]]を制圧、更には剣南西川藩鎮を滅亡させ、西川を根拠地に定め、四川全域をほぼ掌握した。