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収穫後の稲からは、米、[[米糠]](ぬか)、[[籾殻]](もみがら)、[[藁]](わら)がとれる。これらは再利用でき有用な資源でもある。
 
== 概要伝播の理由 ==
稲作が広く行われた理由として、
* 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である<ref name="sasaki">佐々木高明『東アジア農耕論 焼畑と稲作』(弘文堂、1988年)P359-361</ref>。
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* 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない<ref name="sasaki"/>。
* 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71</ref>。
などの理由が考えられている<ref>福田一郎:コメ食民族の食生活誌 日本食生活学会誌 Vol.6 (1995) No.2 P2-6 {{doi|10.2740/jisdh.6.2_2}}</ref>。
 
== 歴史 ==
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日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の[[枡形囲貝塚]]の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、[[1925年]]の[[山内清男]]の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが<ref>山内清男「石器時代にも稲あり」、『人類学雑誌』第40巻5号、1925年。{{doi|10.1537/ase1911.40.181}}</ref>、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)14-15頁。</ref>。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。[[1988年]]には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の[[風張遺跡]]で、約2800年前と推定される米粒がみつかった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』15-18頁。</ref>。
 
縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、[[縄文時代]]後期(約3500年前)に属する岡山県[[南溝手遺跡]]や同県[[津島岡大遺跡]]の[[土器]]胎土内から出た[[プラント・オパール]]である。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の[[土層 (考古学)|土層]]から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』126-129頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』26-27頁。</ref>。
 
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性がある<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』17-18頁。</ref>。土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性がある<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之:稲作の伝来 青驪 2巻, 2005-7-15 p.37-40 {{hdl|2298/22905}}</ref>。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている<ref>プラント・オパール中の炭素抽出とその{{sub|14}}C 年代測定の試み 名古屋大学加速器質量分析計業績報告書. v.24, 2013, p.123-132, {{hdl|2237/20152}}</ref><ref>宇田津徹朗(2013)、東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)名古屋大学加速器質量分析計業績報告書. v.24, 2013, p.113-122 {{hdl|2237/20151}}</ref>。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である<ref>那須浩郎、{{PDFlink|[https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/187004.pdf 「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」](『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、2014年7月)、98頁。}}</ref>。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』18頁。</ref>。
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=== 近世の稲作 ===
[[ファイル:Riziere Oki.jpg|thumb|[[浮世絵]]に描かれた田植え風景]]
江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは[[新田]]の開墾を推進し、傾斜地にも[[棚田]]を設けて米の増産を図った。幕府も[[見沼代用水]]や[[深良用水]]などの農業用用水路も盛んに設けたり、[[諸国山川掟]]を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した<ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 3-1 水の供給技術の進歩が米の増産につながった [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi03/30.html 水の供給技術の進歩が米の増産につながった] 米穀安定供給確保支援機構</ref>。農業知識の普及も進み、[[宮崎安貞]]による日本最古の体系的農書である[[農業全書]]や[[大蔵永常]]の[[農具便利論]]などが出版されている。地方農村では[[二宮尊徳]]や[[大原幽学]]、[[渡部斧松]]などの農政学者が活躍した。農具も発達し、[[備中鍬]]や穀物の選別を行う[[千石通し]]、脱穀の[[千歯扱]]などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、[[慶安の御触書]]でも[[雪隠]]を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、[[やませ]]の影響が強い東北地方の太平洋側を中心に[[江戸四大飢饉|飢饉]]も多発しており、江戸時代からは[[北海道]][[渡島半島]]で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。
 
=== 近代の稲作 ===
明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物から魚肥や[[油粕]]など[[金肥]]と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家([[老農]])の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた([[明治農法]])。ドイツから派遣された[[オスカル・ケルネル]]らによって西洋の科学技術も導入され[[農業試験場]]などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み[[亀の尾]]などの品種が作られた。
 
江戸時代から北海道[[道南]]の[[渡島半島]]南部では稲作が行われていたが、明治に入ると[[道央]]の[[石狩平野]]でも栽培されるようになった。[[中山久蔵]]などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の[[泥炭地]]が広がっていた石狩平野や[[上川盆地]]は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころとなっへ変化していった
 
こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが<ref>米穀市場の近代化[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken/nogyosogokenkyu/pdf/nriae1969-23-1-1.pdf]</ref>、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで[[人口爆発|人口が膨れ上がった]]ことにより、日本内地の米不足は深刻であり、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]や[[日本統治時代の台湾|台湾]]からの米の移入で不足分を賄う有様となった。