「律令制」の版間の差分

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; 一律的に耕作地を班給する土地制度
: 中国では[[均田制]]、日本では[[班田収授法|班田収授制]](班田制)として施行された。王土王民思想を最も反映していたのがこの土地制度である。王が自らの支配する土地を、自らが支配する人民([[百姓]])へ直接(中間支配者である[[豪族]]を介さずに)班給するというものであり、儒教的な理想を多分に含んでいた。中国では、土地の班給よりも租税の確保が重視されていたが、日本では土地の班給が重視されていた。
 
; 個人を課税対象とする体系的な租税制度
: 中国や日本では[[租庸調]]制として施行された。人民は耕作地班給の代償として納税義務を負った。土地の班給が人民一人一人に対して行われたので、課税も個人に対してなされた。これは、律令国家による人民支配が非常に徹底していたことを物語っている。また、課税は恣意性の介入を排除して、誰に対しても同じように一律に行われた。
 
; 一律的に兵役が課せられる軍事制度
: 中国では[[府兵制]]、日本では[[軍団 (古代日本)|軍団制]]として施行された。耕作地班給の代償として[[兵役]]の義務を負ったのである。ただし、唐代の[[江南|江南地方]]では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国([[関東地方|関東]])ばかりが[[防人]]の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。
 
; 人民を把握するための地方行政制度
: 中国では[[郷里制]]、日本では[[令制国|国]][[郡]][[里]]制を採用した。支配を貫徹するために、末端の近くまで官僚が体系的に配置されていた。この制度の下で、班給・課税・徴兵の台帳となる[[戸籍 (古代)|戸籍]]・[[計帳]]の作成が可能となった。逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となったのである。
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; 律令法典
: 社会規範を規定する[[刑法]]的な'''律'''と社会制度を規定する[[行政法]]的な'''令'''が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての'''格'''および律令と格の施行細則としての性格を持つ'''式'''が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。律令法典は、法を統治の基礎に置く[[法家]]の思想を背景としていた。
 
; 官僚制
: [[天子]]の意思命令を確実に具現化するため、各官庁と官僚の責任と任務を明確に区分し、精密に規定された階級に従って、命令を実行に移していく官僚制が、高度な体系の下に構築された。各官庁内では、任務や責任の重さによって、官吏を四段階に区分することを原則としていた。これを[[四等官]]制という。また、官僚を学力で登用する[[科挙]]と呼ばれる登用試験が発達する。日本では[[蔭位|蔭位の制]]という例外規定が設けられ、高位の[[貴族]]の子弟は自動的に官職が与えられたため、徹底はしなかったが、[[官人]]の登用試験としては存在した。日本において、庶民から[[進士]]に合格し下級官人となり最終的に貴族にまでなった人物として[[勇山文継]]が知られている。