「ランディ・ジョンソン」の版間の差分

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|写真のコメント = 2016年
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[カリフォルニア州]][[コントラコスタ郡 (カリフォルニア州)|コントラコスタ郡]][[ウォールナットクリーク (カリフォルニア州)|ウォールナットクリーク]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1963|9|10}}
|没年月日 =
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|守備位置 = [[投手]]
|プロ入り年度 = 1985年
|ドラフト順位 = MLBドラフト2巡目
|初出場 = 1988年9月15日
|最終出場 = 2009年10月4日
|経歴 =
* {{仮リンク|リバモア高等学校|en|Livermore High School}}
* [[モントリオール・エクスポズ]](1988 - 1989)
* [[南カリフォルニア大学]]
* [[シアトル・マリナーズ]](1989 - 1998)
* [[ヒュースワシントン・アスナショナルズ|モンリオール・エクスポズ]](1998) (1988 - 1989)
* [[トル・マ・ダイヤモンドバックスーズ]](1999 (1989 - 2004)1998)
* [[ューヨークストンヤンキートロズ]](2005 - 2006)(1998)
* [[アリゾナ・ダイヤモンドバックス(2007]] (1999 - 2008)2004)
===* [[ニューヨーク・ヤンキース]] ===(2005 - 2006)
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]](2009)
* アリゾナ・ダイヤモンドバックス (2007 - 2008)
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]](2009 (2009)
|選出国 = アメリカ
|選出年 = 2015年
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|選出方法 = [[全米野球記者協会|BBWAA]]選出
}}
'''ランドール・デイヴィッド・ジョンソン'''('''Randall David Johnson''', [[1963年]][[9月10日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[コントラコスタ郡 (カリフォルニア州)|コントラコスタ郡]][[ウォールナットクリーク (カリフォルニア州)|ウォールナットクリーク]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。左投右打
 
左腕歴代最多となる[[サイ・ヤング賞]]5度受賞、歴代2位の通算4875[[奪三振]]を記録した、メジャーを代表する左腕投手。ニックネームは「'''Big Unit'''」。
 
== 経歴 ==
=== プロ入りまで ===
6歳のときに野球を始め、同時に一番好きなスポーツとなった<ref name="maj199709">[[鉄矢多美子]] 「豪腕復活インタビュー ランディー・ジョンソン [マリナーズ]」『[[月刊メジャー・リーグ]]』 1997年9月号、[[ベースボールマガジン]]社、1997年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-9、3 - 8頁。</ref>。本格的に野球をするため、8歳の時に[[リトルリーグ]]入団のオーディションを受けたが、体が大きすぎるため年齢詐称を疑われ、母親が身分証明書を見せたことで、やっと入団が許可された<ref name="2009review">[[アキ猪瀬]] 「300勝――絶滅種の金字塔ランディ・ジョンソン [ジャイアンツ]」『メジャー・リーグ記録集計号 ザ・スタッツブック 2009』、[[ベースボールマガジン]]社、2009年、雑誌 20448-11/25、71頁。</ref>。
 
{{by|1982年}}の[[1982年のMLBドラフト|MLBドラフト]]4巡目(全体89位)で[[アトランタ・ブレーブス]]から4巡目に指名を受け、契約金48,000ドルを提示されるが<ref name="larrystone15">{{cite book |title=Randy Johnson, Arizona Heat!|url=http://books.google.co.jp/books?id=AWhhedsJQF0C&pg=PA15&dq#v=onepage&q=&f=false|last=Stone|first=Larry|year=1999|publisher=Sports Publishing L.L.C|location=[[アメリカ合衆国|United States]]|isbn=9781582610429|pages=p. 15.}}</ref>、「今プロに行っても将来的な保証が何もない」という父の意向により<ref name="2009review"/>、契約せずに[[南カリフォルニア大学]]へ進学。大学では2年生まで[[:en:USC Trojans baseball|野球]]と[[:en:USC Trojans men's basketball|バスケットボール]]をしていたが、3年生から野球に集中する<ref name="larrystone15"/>。大学時代は[[マーク・マグワイア]]とチームメイトだった
 
=== モントリオール・プロ入りとエクスポズ時代 ===
{{by|1985年}}の[[1985年のMLBドラフト|MLBドラフト]]2巡目(全体36位)で[[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポズ]]から2巡目に指名を受けされ、プロ。{{by|1986年}}はA級{{仮リンク|ジュピター・ハンマーヘッズ|en|Jupiter Hammerheads|label=ウェストパームビーチ・エクスポズ}}で119.2イニングで133奪三振の一方で94四球、{{by|1987年}}はAA級[[ジャクソンビル・ジャンボシュリンプ|ジャクソンビル・エクスポズ]]で140イニングで163奪三振ながら128四球を記録する。{{by|1988年}}は有力誌である[[ベースボールアメリカ]]の選ぶ期待の若手第3位に選出される<ref name="bio1988"/>。AAA級[[インディアナポリス・インディアンス]]で継投での[[ノーヒットノラン]]を達成するも、[[敗戦投手]]となる珍記録を残す(7回を無安打に抑えるが、初回に四球で出した走者に2つの盗塁を許し、次打者の内野ゴロで失点)<ref name="bio1988">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1988|title=Randy Johnson 1988 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。セプテンバー・コールアップでメジャーに昇格し、[[9月15日]]の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]戦でメジャーデビュー。[[9月20日]]の[[シカゴ・カブス]]戦で11三振を奪ってメジャー初完投を記録するなど3勝0敗・防御率2.42の成績だった。{{by|1989年}}は開幕から[[先発ローテーション]]入りするが制球が悪く、0勝4敗・防御率6.67と低迷し<ref name="bio1989">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1989|title=Randy Johnson 1989 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>、[[5月9日]]にマイナー降格。[[5月25日]]に[[マーク・ラングストン]]、後日発表の[[マイク・キャンベル (投手)|マイク・キャンベル]]の交換トレードで[[ジーン・ハリス]]、{{仮リンク|ブライアン・ホルマン|en|Brian Holman}}と共に[[シアトル・マリナーズ]]に移籍<ref name="bio1989"/>なった
 
=== シアトル・マリナーズ時代 ===
1989年[[5月25日]]に[[マーク・ラングストン]]、[[後日発表選手]]の[[マイク・キャンベル (投手)|マイク・キャンベル]]との[[トレード#メジャーリーグ|トレード]]で、{{仮リンク|ジーン・ハリス (野球)|en|Gene Harris (baseball)|label=ジーン・ハリス}}、{{仮リンク|ブライアン・ホルマン|en|Brian Holman}}と共に[[シアトル・マリナーズ]]に移籍<ref name="bio1989"/>。移籍後も制球難は変わらなかったが、7勝を挙げる。{{by|1990年}}[[6月2日]]の[[デトロイト・タイガース]]戦で球団史上初の[[ノーヒットノーラン]]を達成<ref name="bio1990">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1990|title=Randy Johnson 1990 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>するなど6月は5勝0敗・防御率2.40の好成績で[[ピッチャー・オブ・ザ・マンス]]を初受賞<ref name="bio1990"/>。前半戦で9勝3敗・防御率3.68を記録し<ref name="bio1990"/>、登板機会はなかったが[[1990年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]にも初めて選出された。14勝11敗・防御率3.65、リーグワーストの120四球を記録。オフの[[日米野球]]でMLB選抜として来日。メジャー選抜は負け越したが、最終第8戦で先発して[[チャック・フィンリー]]との継投でノーヒットノランを達成し、意地を見せた<ref>ベースボールマガジン2012年11月号74ページ</ref>。{{by|1991年}}は13勝10敗・防御率3.98、リーグ2位の228奪三振、リーグワーストの152四球を記録。{{by|1992年}}は初の[[開幕投手]]を務める。[[9月27日]]の[[テキサス・レンジャーズ]]戦で18奪三振を記録し、[[ロン・ギドリー]]が持つ左投手としてのリーグ記録に並び<ref name="bio1992">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1992|title=Randy Johnson 1992 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>、[[9月16日]]からの3試合で45奪三振は史上2位となった<ref name="bio1992"/>。12勝14敗、3年連続リーグワーストの144四球だったが、241奪三振で[[最多奪三振 (MLB)|最多奪三振]]のタイトルを獲得した。同年[[ノーラン・ライアン]]と、当時レンジャーズ投手コーチでライアンと二人三脚でトレーニング方法を開発した[[トム・ハウス]]の2人と出会い、メンタルトレーニングの指導を受けて制球難を改善させる<ref>{{Cite web|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/2009/text/200906020007-spnavi.html |title=ランディ・ジョンソン、300勝への軌跡 左腕史上6人目の偉業達成 |author=上田龍|publisher=スポーツナビ|date=2009年6月5日 |publisher=スポーツナビ |accessdate=2009年6月6日 }}</ref>。
 
{{by|1993年}}[[5月16日]]の[[オークランド・アスレチックス]]戦では8回まで無安打に抑えるも9回に安打を打たれノーヒッターを逃した<ref>[http://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK199305160.shtml May 16, 1993 Seattle Mariners at Oakland Athletics Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com] 2008年1月11日閲覧.</ref>。19勝8敗・防御率3.24、リーグ最多となる308奪三振を記録し、トレード相手のラングストンが{{by|1987年}}に記録した262奪三振の球団記録を更新<ref>[http://www.baseball-reference.com/teams/SEA/leaders_pitch.shtml Seattle Mariners Pitching Leaders - Baseball-Reference.com] 2008年1月11日閲覧.</ref>。3年連続で100以上だった四球も99に留めた。[[サイ・ヤング賞]]の投票では[[ジャック・マクダウェル]]に次ぐ2位に入った<ref>[http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1993.shtml#ALcya Baseball Awards Voting for 1993 - Baseball-Reference.com] 2008年1月11日閲覧.</ref>。オフに4年総額2025万ドル(5年目は600万ドルのオプション)で契約を延長<ref>{{Cite web|last=Chass|first=Murray|date=1993年12月10日|url=http://www.nytimes.com/1993/12/10/sports/baseball-yankees-newfound-thrift-costs-them-randy-johnson.html|title=Yankees' Newfound Thrift Costs Them Randy Johnson|work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|language=英語 |accessdate=2010年1月10日 }}</ref>。
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[[ビル・クリントン]]大統領が始球式を務めた{{by|1994年}}[[4月4日]]の[[クリーブランド・インディアンス]]との開幕戦で、8回に[[サンディ・アロマー・ジュニア]]に打たれるまでノーヒットに抑えた<ref name="bio1994">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1994|title=Randy Johnson 1994 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。[[5月15日]]から[[6月20日]]にかけて3連続完封を含む7連勝<ref name="bio1994"/>。[[7月7日]]の[[ボストン・レッドソックス]]戦でラングストンの球団記録を更新する通算75勝目を挙げる<ref name="bio1994"/>。[[1994年から1995年のMLBストライキ]]でシーズンが打ち切られたが、13勝6敗・防御率3.19、リーグ最多の204奪三振・9完投・4完封を記録。サイ・ヤング賞の投票では3位に入った。{{by|1995年}}は開幕から6連勝を記録し、[[1995年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では先発投手を務めた。チームは[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|カリフォルニア・エンゼルス]]と同率で並び、[[10月2日]]のワンゲームプレイオフでは中3日で先発、3安打12奪三振で完投勝利を挙げて球団創設以来初の地区優勝をもたらす。18勝2敗・防御率2.48・294奪三振、歴代7位の勝率.900<ref>[http://www.baseball-reference.com/leaders/WLp_season.shtml Single-Season Leaders & Records for Won-Loss % - Baseball-Reference.com] 2008年1月11日閲覧.</ref>を記録し、初の[[最優秀防御率 (MLB)|最優秀防御率]]、4年連続の最多奪三振を獲得。[[ニューヨーク・ヤンキース]]との[[1995年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では緊急登板の影響で第3戦に先発し[[勝利投手]]。最終第5戦では同点の9回にリリーフ登板し、延長11回表に1失点するが、その裏2点を挙げて逆転サヨナラ勝利。インディアンスとの[[1995年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では2試合に先発するが勝てず、チームは2勝4敗で敗退した。オフに自身初、球団史上初のサイ・ヤング賞を受賞。
 
{{by|1996年}}は[[椎間板ヘルニア]]と背中の故障のため5勝にとどまる。{{by|1997年}}は復活を果たし<ref name="maj199709"/>、[[6月24日]]のアスレチックス戦で19奪三振を記録して自身の持つ左腕投手としてのリーグ記録を更新<ref name="bio1996">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1996|title=Randy Johnson 1996 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>するが敗戦投手。前半戦で12勝を挙げ、2年ぶりに[[1997年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務め、2回に[[ラリー・ウォーカー]]と対戦した際に頭部後方へ暴投し、その後ウォーカーは[[打撃用ヘルメット|ヘルメット]]を前後逆に被り右打席に入るというパフォーマンスを行った。[[8月8日]]の[[シカゴ・ホワイトソックス]]戦でも19奪三振を記録し完封勝利。その後[[故障者リスト]]入りするが、[[9月27日]]のアスレチックス戦でリリーフ登板して[[ベン・グリーブ]]から三振を奪い、通算2000奪三振を達成。同時に20勝目を挙げ、球団史上初の20勝投手となった<ref name="bio1996"/>。最終的に20勝4敗・防御率2.28・291奪三振を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。[[ボルチモア・オリオールズ]]との[[1997年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦と第4戦に先発したが共に敗戦投手となり、チームは1勝3敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では勝利数・防御率・奪三振の3部門全てで上回った[[ロジャー・クレメンス]]に次ぐ2位だった<ref>[http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1997.shtml#ALcya Baseball Awards Voting for 1997 - Baseball-Reference.com] 2008年1月11日閲覧.</ref>。{{by|1998年}}は不調で7月までに9勝10敗・防御率4.33。[[7月31日]]に[[フレディ・ガルシア]]、[[カルロス・ギーエン]]、後日発表[[ジョン・ハラマ]]との交換トレードで[[ヒューストン・アストロズ]]に移籍成績だった 
 
=== ヒューストン・アストロズ時代 ===
1998年[[7月31日]]に[[フレディ・ガルシア]]、[[カルロス・ギーエン]]、後日発表選手の[[ジョン・ハラマ]]とのトレードで、[[ヒューストン・アストロズ]]へ移籍した。移籍後は11試合に先発し、内7試合で2桁奪三振を記録するなど<ref>[http://www.baseball-reference.com/pi/gl.cgi?n1=johnsra05&t=p&year=1998 Randy Johnson 1998 Pitching Gamelogs -Baseball-Reference PI] 2008年1月11日閲覧.</ref>、10勝1敗・防御率1.28・116奪三振、[[グレッグ・マダックス]]の5完封に次ぐ4完封と復調し、チームの地区優勝の原動力となる。[[サンディエゴ・パドレス]]との[[1998年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦と第4戦に先発し、好投したが共に敗戦投手となり、チームは1勝3敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では7位。329奪三振で自己最多を更新し、20試合で2桁奪三振を記録した。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フ#メジャーリーグベジェントスボール|FA]]となり、[[12月10日]]に[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]と4年5300万ドルで契約った
 
=== アリゾナ・ダイヤモンドバックス時代 ===
1998年[[12月10日]]に[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]と4年5300万ドルで契約。
{{by|1999年}}は援護に恵まれず17勝9敗と勝利数は伸びなかったが、いずれもリーグトップの防御率2.48・364奪三振・271.2イニング(自己最高)・12完投。23試合で2桁奪三振を記録し、[[サンディ・コーファックス]]が{{by|1965年}}に記録したリーグ記録の21を更新、{{by|1973年}}のライアンに並ぶMLB記録となった<ref>{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1999|title=Randy Johnson 1999 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。チームは100勝を挙げて史上最速の創設2年目で地区優勝を果たす。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[1999年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦に先発、9回途中まで11三振を奪ったが7失点と打ち込まれ敗戦投手。チームは1勝3敗で敗退した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2000年}}は開幕から7連勝を記録するなど前半戦で14勝2敗・防御率1.80の好成績を挙げ、[[2000年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では先発投手を務めた。[[9月10日]]の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]戦で[[マイク・ローウェル]]から三振を奪い、史上12人目の[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]を達成。後半戦は5勝にとどまるが、19勝7敗・防御率2.64・347奪三振で2年連続のサイ・ヤング賞を獲得した。
 
{{by|1999年}}は援護に恵まれず17勝9敗と勝利数は伸びなかったが、いずれもリーグトップの防御率2.48・364奪三振・271.2イニング(自己最高)・12完投。23試合で2桁奪三振を記録し、[[サンディ・コーファックス]]が{{by|1965年}}に記録したリーグ記録の21を更新、{{by|1973年}}のライアンに並ぶMLB記録となった<ref>{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1999|title=Randy Johnson 1999 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。チームは100勝を挙げて史上最速の創設2年目で地区優勝を果たす。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[1999年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦に先発、9回途中まで11三振を奪ったが7失点と打ち込まれ敗戦投手。チームは1勝3敗で敗退した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2000年}}は開幕から7連勝を記録するなど前半戦で14勝2敗・防御率1.80の好成績を挙げ、[[2000年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム ]]では先発投手を務めた。[[9月10日]]の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]戦で[[マイク・ローウェル]]から三振を奪い、史上12人目の[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]を達成。後半戦は5勝にとどまるが、19勝7敗・防御率2.64・347奪三振で2年連続のサイ・ヤング賞を獲得した。
{{by|2001年}}[[3月24日]]、スプリングトレーニングでの[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]戦の7回に、投球が偶然飛んできた[[鳩]]を直撃するハプニングが起きた。投球はノーカウントになったが、ショックを受けてその後打ち込まれた。この場面は全米に放送され、後日[[動物愛護団体]]から訴えられた。[[5月8日]]の[[シンシナティ・レッズ]]戦で史上4人目の1試合20奪三振を達成するなど、前半戦で11勝・202奪三振を記録し、2年連続で[[2001年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の先発投手を務めた。[[7月19日]]、前日照明の故障により3回表終了後に[[サスペンデッドゲーム#メジャーリーグベースボール|サスペンデッドゲーム]]となったパドレス戦が再開され、3回からリリーフとして登板。7イニングを1安打無失点に抑え、リリーフ投手としての新記録となる16三振を奪った。21勝6敗、共にリーグトップの防御率2.49・372奪三振を記録。23試合で2桁三振を奪い<ref name="bio2001"/>、奪三振率は13.41で[[ペドロ・マルティネス]]が1999年に記録したMLB記録の13.2を更新した<ref name="bio2001">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=2001|title=Randy Johnson 2001 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。同年チームメイトの[[カート・シリング]]が293奪三振を記録し、同一チームの2投手合計の奪三振は665で、エンゼルスのライアンと[[ビル・シンガー]]が{{by|1973年}}に記録した624を上回った<ref name="bio2001"/>。シリングと2人で計43勝を挙げて2年ぶりの地区優勝に貢献。[[セントルイス・カージナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第2戦に先発したが、[[アルバート・プーホルス]]に本塁打を浴びるなど8回3失点で敗戦投手。ブレーブスとの[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦で3安打11奪三振完封勝利。第5戦でも勝利投手となり、初のリーグ優勝に導いた。自身にとっても初出場となったヤンキースとの[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、3安打11奪三振完封勝利。その後2試合連続でサヨナラ負けを喫するなど2勝3敗と王手をかけられるが、第6戦で勝利投手となりタイに戻す。最終第7戦ではリードを許した8回途中からリリーフとして登板し、無失点に抑える。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でワールドチャンピオンとなった。3勝を挙げてシリングと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞。3年連続でサイ・ヤング賞を獲得し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、表紙を飾った。
 
{{by|2001年}}[[3月24日]]、スプリングトレーニングでの[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]戦の7回に、投球が偶然飛んできた[[鳩]]を直撃するハプニングが起きた。投球はノーカウントになったが、ショックを受けてその後打ち込まれた。この場面は全米に放送され、後日[[動物愛護団体]]から訴えられた。[[5月8日]]の[[シンシナティ・レッズ]]戦で史上4人目の1試合20奪三振を達成するなど、前半戦で11勝・202奪三振を記録し、2年連続で[[2001年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の先発投手を務めた。[[7月19日]]、前日照明の故障により3回表終了後に[[サスペンデッドゲーム#メジャーリーグベースボール|サスペンデッドゲーム]]となったパドレス戦が再開され、3回からリリーフとして登板。7イニングを1安打無失点に抑え、リリーフ投手としての新記録となる16三振を奪った。21勝6敗、共にリーグトップの防御率2.49・372奪三振を記録。23試合で2桁三振を奪い<ref name="bio2001"/>、奪三振率は13.41で[[ペドロ・マルティネス]]が1999年に記録したMLB記録の13.2を更新した<ref name="bio2001">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=2001|title=Randy Johnson 2001 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。同年チームメイトの[[カート・シリング]]が293奪三振を記録し、同一チームの2投手合計の奪三振は665で、エンゼルスのライアンと[[ビル・シンガー]]が{{by|1973年}}に記録した624を上回った<ref name="bio2001"/>。シリングと2人で計43勝を挙げて2年ぶりの地区優勝に貢献。[[セントルイス・カージナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第2戦に先発したが、[[アルバート・プーホルス]]に本塁打を浴びるなど8回3失点で敗戦投手。ブレーブスとの[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦で3安打11奪三振完封勝利。第5戦でも勝利投手となり、初のリーグ優勝に導いた。自身にとっても初出場となったヤンキースとの[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、3安打11奪三振完封勝利。その後2試合連続でサヨナラ負けを喫するなど2勝3敗と王手をかけられるが、第6戦で勝利投手となりタイに戻す。最終第7戦ではリードを許した8回途中からリリーフとして登板し、無失点に抑える。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でワールドチャンピオンとなった。3勝を挙げてシリングと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞。3年連続でサイ・ヤング賞を獲得し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、表紙を飾った。
{{by|2002年}}は開幕から6連勝。いずれもリーグトップの24勝(5敗)・防御率2.32・334奪三振・260.0イニング・8完投を記録し、ナショナルリーグでは{{by|1985年}}の[[ドワイト・グッデン]]以来の[[三冠 (野球)|投手三冠]]を達成。シリングと揃って300奪三振を記録し、計47勝を挙げて2年連続の地区優勝に大きく貢献する。カージナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦に先発したが6失点と打ち込まれて敗戦投手となり、チームは3連敗で敗退した。オフに4年連続でサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2003年}}は開幕直後に右膝を痛め、[[4月11日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では10失点を喫するなど不調。[[4月21日]]に故障者リスト入りし、[[5月1日]]に内視鏡手術を受ける。7月下旬に復帰したが本調子とは程遠かった。[[9月19日]]のブルワーズ戦ではメジャー初本塁打を記録<ref>[http://www.baseball-reference.com/pi/gl.cgi?n1=johnsra05&t=b&year=2003 Randy Johnson 2003 Batting Gamelogs - Baseball-Reference PI] 2008年1月11日閲覧.</ref>。40歳での初本塁打はのちに[[バートロ・コローン]]に抜かれるまで最年長記録であった<ref>[http://full-count.jp/2016/05/08/post31654/ 【米国はこう見ている】メジャー最年長42歳の右腕コロンが初本塁打 会場大興奮「不可能が可能に」] Full-count 2016年5月8日</ref>。{{by|2004年}}[[5月18日]]<ref>奇しくも10年前の1994年の同じ日に、NPBで[[槙原寛己]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])が完全試合を達成している。</ref>のブレーブス戦で13三振を奪い、史上17人目の[[完全試合]]を達成。両リーグでのノーヒッターは史上5人目の快挙で、40歳8ヶ月での達成は{{by|1904年}}の[[サイ・ヤング]]の37歳1ヶ月を100年ぶりに更新する史上最年長記録となった。[[6月29日]]のパドレス戦で[[ジェフ・シリーロ]]から三振を奪い、史上4人目の通算4000奪三振を記録。[[9月15日]]の[[コロラド・ロッキーズ]]戦で[[ビニー・カスティーヤ]]から三振を奪って通算4137奪三振となり、[[スティーブ・カールトン]]を抜いて単独3位に浮上し、左腕投手としては歴代1位となった。111敗を喫して地区最下位に低迷したチームの中で孤軍奮闘し、16勝14敗・防御率2.60・290奪三振を記録した。打線の援護に恵まれず勝利数は伸びなかったが制球力が向上し、投球内容は20勝を挙げた2001年や2002年よりも良かった<ref>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2005|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005|publisher=廣済堂出版|pages=38頁|id=ISBN 978-4-331-51093-3}}</ref>。サイ・ヤング賞の投票ではクレメンスとの[[一騎討ち]]となったが、勝利数以外の全項目で上回ったにも関わらず2位に終わった。7月にヤンキース、エンゼルス、[[ボストン・レッドソックス]]など数球団と移籍交渉をしたが実現せず<ref name="major0503">「ランディ・ジョンソン[ヤンキース]/“41歳の若者”が挑む大舞台」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2005年3月号、[[ベースボール・マガジン社]]、2003年、[[雑誌コード]]08625-3、8-9頁。</ref>。12月にヤンキース、[[ロサンゼルス・ドジャース]]との間でジョンソンを含めた10選手が絡む三角トレードが計画されたが、ドジャースのポール・デポデスタ[[ゼネラルマネージャー|GM]]が「メリットが少ない」として締結寸前で撤退し、破談となった<ref name="major0503"/>。{{by|2005年}}、ヤンキースはワールドチャンピオン奪回の切り札として新しいオファーを行い<ref name="sul200705">三尾圭「リベンジ! 新天地で燃える男たち」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2007年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2007年、雑誌15509-8、34 - 35頁</ref>、[[1月11日]]に[[ハビアー・バスケス]]、[[w:Brad Halsey|ブラッド・ハルシー]]、[[ディオナー・ナバーロ]]プラス900万ドルの金銭との交換トレードが成立し、移籍。背番号51は[[バーニー・ウィリアムス]]が着けていたため41に決定し<ref>{{Cite web|last=Feinsand|first=Mark|date=January 11, 2005|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20050111&content_id=929785&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null|title=Johnson to wear No. 41 with Yanks|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2010年3月4日 }}</ref>、{{by|2006年}}から2年3200万ドルで契約を延長した<ref name="major0503"/>。
 
{{by|2002年}}は開幕から6連勝。いずれもリーグトップの24勝(5敗)・防御率2.32・334奪三振・260.0イニング・8完投を記録し、ナショナルリーグでは{{by|1985年}}の[[ドワイト・グッデン]]以来の[[三冠 (野球)|投手三冠]]を達成。シリングと揃って300奪三振を記録し、計47勝を挙げて2年連続の地区優勝に大きく貢献する。カージナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第1戦に先発したが6失点と打ち込まれて敗戦投手となり、チームは3連敗で敗退した。オフに4年連続でサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2003年}}は開幕直後に右膝を痛め、[[4月11日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では10失点を喫するなど不調。[[4月21日]]に故障者リスト入りし、[[5月1日]]に内視鏡手術を受ける。7月下旬に復帰したが本調子とは程遠かった。[[9月19日]]のブルワーズ戦ではメジャー初本塁打を記録<ref>[http://www.baseball-reference.com/pi/gl.cgi?n1=johnsra05&t=b&year=2003 Randy Johnson 2003 Batting Gamelogs - Baseball-Reference PI] 2008年1月11日閲覧.</ref>。40歳での初本塁打はのちに[[バートロ・コローン]]に抜かれるまで最年長記録であった<ref>[http://full-count.jp/2016/05/08/post31654/ 【米国はこう見ている】メジャー最年長42歳の右腕コロンが初本塁打 会場大興奮「不可能が可能に」] Full-count 2016年5月8日</ref>。{{by|2004年}}[[5月18日]]<ref>奇しくも10年前の1994年の同じ日に、NPBで[[槙原寛己]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])が完全試合を達成している。</ref>のブレーブス戦で13三振を奪い、史上17人目の[[完全試合]]を達成。両リーグでのノーヒッターは史上5人目の快挙で、40歳8ヶ月での達成は{{by|1904年}}の[[サイ・ヤング]]の37歳1ヶ月を100年ぶりに更新する史上最年長記録となった。[[6月29日]]のパドレス戦で[[ジェフ・シリーロ]]から三振を奪い、史上4人目の通算4000奪三振を記録。[[9月15日]]の[[コロラド・ロッキーズ]]戦で[[ビニー・カスティーヤ]]から三振を奪って通算4137奪三振となり、[[スティーブ・カールトン]]を抜いて単独3位に浮上し、左腕投手としては歴代1位となった。111敗を喫して地区最下位に低迷したチームの中で孤軍奮闘し、16勝14敗・防御率2.60・290奪三振を記録した。打線の援護に恵まれず勝利数は伸びなかったが制球力が向上し、投球内容は20勝を挙げた2001年や2002年よりも良かった<ref>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2005|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005|publisher=廣済堂出版|pages=38頁|id=ISBN 978-4-331-51093-3}}</ref>。サイ・ヤング賞の投票ではクレメンスとの[[一騎討ち]]となったが、勝利数以外の全項目で上回ったにも関わらず2位に終わった。7月にヤンキース、エンゼルス、[[ボストン・レッドソックス]]など数球団と移籍交渉をしたが実現せず<ref name="major0503">「ランディ・ジョンソン[ヤンキース]/“41歳の若者”が挑む大舞台」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2005年3月号、[[ベースボール・マガジン社]]、2003年、[[雑誌コード]]08625-3、8-9頁。</ref>。12月にヤンキース、[[ロサンゼルス・ドジャース]]との間でジョンソンを含めた10選手が絡む三角トレードが計画されたが、ドジャースのポール・デポデスタ[[ゼネラルマネージャー|GM]]の{{仮リンク|ポール・デポデスタ|en|Paul DePodesta}}が「メリットが少ない」として締結寸前で撤退し、破談となった<ref name="major0503"/>。{{by|2005年}}、ヤンキースはワールドチャンピオン奪回の切り札として新しいオファーを行い<ref name="sul200705">三尾圭「リベンジ! 新天地で燃える男たち」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2007年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2007年、雑誌15509-8、34 - 35頁</ref>、[[1月11日]]に[[ハビアー・バスケス]]、[[w:Brad Halsey|ブラッド・ハルシー]]、[[ディオナー・ナバーロ]]プラス900万ドルの金銭との交換トレードが成立し、移籍。背番号51は[[バーニー・ウィリアムス]]が着けていたため41に決定し<ref>{{Cite web|last=Feinsand|first=Mark|date=January 11, 2005|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20050111&content_id=929785&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null|title=Johnson to wear No. 41 with Yanks|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2010年3月4日 }}</ref>、{{by|2006年}}から2年3200万ドルで契約を延長した<ref name="major0503"/>。
=== ニューヨーク・ヤンキース ===
 
=== ヤンキース時代 ===
[[ファイル:RandyJohnson.jpg|right|thumb|200px|2006年]]
{{by|2005年}}、ヤンキースはワールドチャンピオン奪回の切り札として新しいオファーを行い<ref name="sul200705">三尾圭「リベンジ! 新天地で燃える男たち」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2007年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2007年、雑誌15509-8、34 - 35頁</ref>、[[1月11日]]に[[ハビアー・バスケス]]、[[ブラッド・ハルジー]]、[[ディオナー・ナバーロ]]、さらに900万ドルの金銭とのトレードが成立し、移籍した。背番号51は[[バーニー・ウィリアムス]]が着けていたため41に決定し<ref>{{Cite web|last=Feinsand|first=Mark|date=January 11, 2005|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20050111&content_id=929785&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null|title=Johnson to wear No. 41 with Yanks|work=MLB.com|language=英語|accessdate=2010年3月4日}}</ref>、{{by|2006年}}から2年3200万ドルで契約を延長した<ref name="major0503"/>。移籍1年目ながら開幕投手に選ばれ、勝利投手となる。正捕手[[ホルヘ・ポサダ]]とは相性が合わず、[[w:John Flaherty{{仮リンク|ジョン・フラハティ]]|en|John Flaherty}}とバッテリーを組むことが多かった。ポサダと組んだ15試合では5勝6敗防御率4.70だったのに対し、フラハティと組んだ21試合は12勝2敗防御率3.18だった<ref>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2006|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2006|publisher=廣済堂出版|pages=25頁|id=ISBN 978-4-331-51146-6}}</ref>。激しい地区優勝争いを演じたレッドソックス戦では5勝0敗を挙げるなど<ref>[http://www.baseball-reference.com/pi/gl.cgi?n1=johnsra05&t=p&year=2005 Randy Johnson 2005 Pitching Gamelogs - Baseball-Reference PI] 2008年1月11日</ref>17勝8敗・防御率3.79、ともにリーグ2位の211奪三振、WHIP1.13を記録し、故障者が続出した先発陣の中で、唯一ローテーションを守り切った。チームはレッドソックスを振り切って地区9連覇を果たす。エンゼルスとの[[2005年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第3戦で先発したが3回5失点で降板。第5戦で[[マイク・ムッシーナ]]をリリーフして無失点に抑えたがチームは敗れ、2勝3敗で敗退した。
 
2006年は1996年に痛めた背中の故障が再発し、17勝を挙げたが防御率5.00と不本意な成績だった。チームは地区10連覇を果たし、タイガースとの[[2006年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では第3戦で先発したが6回途中5失点で敗戦投手となり、1勝3敗で敗退。10月に球団は手術を発表した。
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ファンやメディアに辟易して自らトレードを志願し<ref name="sul200705"/>、{{by|2007年}}[[1月9日]]に[[ルイス・ビスカイーノ]]他3選手との交換トレードで古巣ダイヤモンドバックスに復帰した。[[6月5日]]のジャイアンツ戦で8三振を奪って通算4605奪三振となり、クレメンスを抜いて歴代単独2位に浮上。[[6月9日]]にクレメンスがヤンキースで復帰し7三振を奪ったため抜かれたが、[[6月10日]]のレッドソックス戦で9三振を奪って再び2位となった。しかし椎間板ヘルニアが再発して手術を受けることとなり、[[6月28日]]のドジャース戦を最後に戦線離脱し、4616奪三振でシーズンを終えた。{{by|2008年}}は開幕には間に合わなかったが、[[4月14日]]に復帰。[[6月3日]]のブルワーズ戦でクレメンスを抜いて再び歴代単独2位となった<ref>{{Cite web|last=Gilbert|first=Steve|date=2008年6月3日|url=http://arizona.diamondbacks.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20080603&content_id=2831374&vkey=news_ari&fext=.jsp&c_id=ari|title=Big Unit second all-time in strikeouts|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2009年7月19日 }}</ref>。その試合から6連敗を喫するが、7月に5連勝と巻き返す。大きな故障もなくシーズンを投げ抜き、11勝10敗・防御率3.91を記録した。オフにフリーエージェントとなり、[[12月26日]]にジャイアンツと1年800万ドルで契約<ref name="sign sf">{{Cite web |last=Haft |first=Chris |date=2008年12月26日|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20081226&content_id=3728929&vkey=hotstove2008&fext=.jsp|title=Giants sign Big Unit to one-year deal Future Hall of Famer and local product five wins from 300|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2008年12月27日 }}</ref>。[[ティム・リンスカム]]、[[バリー・ジト]]と共にサイ・ヤング賞投手が同一チームに3人在籍することとなり、これは2002年のブレーブス(マダックス、[[トム・グラビン]]、[[ジョン・スモルツ]])以来だった<ref name="sign sf"/>。
 
=== サンフランシスコ・ジャイアンツ時代 ===
[[ファイル:Randy Johnson joins 300 win club.jpg|thumb|2009年6月4日 通算300勝達成時]]
[[6月4日]]の[[ワシントン・ナショナルズ]]戦で6回を1失点に抑え、史上24人目の[[300勝クラブ|300勝]]を達成<ref>{{Cite web|last=Haft |first=Chris |date=2009年6月4日|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20090604&content_id=5147372&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=mlb|title=Big Unit gets 300th win on first try|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2009年6月5日 }}</ref>。300勝初挑戦で到達したのは、1985年の[[トム・シーバー]]以来、45歳での達成は[[フィル・ニークロ]]の46歳に次ぐ2番目の高齢記録となった。しかし打撃の際に左肩を痛め、故障者リスト入り。終盤に復帰したが全てリリーフでの登板だった。{{by|2010年}}[[1月5日]]に現役引退を表明<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100106-OYT1T00244.htm|title=ランディ・ジョンソン投手、引退を表明|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2010-01-06|accessdate=2010-01-06}}</ref>。
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2010年4月20日に、[[東京ドーム]]で[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]主催ゲーム(対[[千葉ロッテマリーンズ]])が初めて行われた際、[[始球式]]を行うために来日した。
 
2014年5月18日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスの本拠地[[チェイス・フィールド]]で行われたロサンゼルス・ドジャース戦の試合前の始球式を務めた。ちょうど10年前のこの日に完全試合を達成したことを記念にしたもので、当時のユニフォームを着ての投球だった。
 
2015年1月、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのフロント入りが発表され、同球団の「球団代表付特別補佐」に就任した<ref>[http://thescore.com/news/674480 Diamondbacks hire Randy Johnson as special assistant] - theScore・2015年1月7日</ref>。同年、[[アメリカ野球殿堂]]入り得票の有資格者となり97.3%という圧倒的な支持を集めて殿堂入りを果たした(同年に共に表彰されたのは[[ペドロ・マルティネス]](91.1%)、[[ジョン・スモルツ]](82.9%)、[[クレイグ・ビジオ]](82.7%))。また、殿堂入りを記念し、ダイヤモンドバックスはジョンソン在籍時の背番号『'''51'''』を[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に指定、同年8月8日に欠番表彰式を行った<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1520503.html|title=ランディ・ジョンソン氏、背番51の永久欠番式典|work=nikkansports.com|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2015-08-09|accessdate=2015-08-13}}</ref>。
 
== 選手としての特徴 ==
{{スポーツ選手の出典明記|特徴|section=1|date=2008年5月10日 (土) 05:54 (UTC)}}
メジャーリーグでも稀な2m08cmの長身から、最速102mph(約164km/h)の[[速球#フォーシーム・ファストボール|フォーシーム]]と2種類の[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[スプリット・フィンガード・ファストボール|スプリッター]]、[[速球#ツーシーム・ファストボール|ツーシーム]]を投げ分ける。身長の分だけ腕も長く、しかも[[サイドスロー]]に近い[[スリー・クォーター]]であることに加えて、横に変化する高速スライダーを投げるため、左打者にとっては背中越しにボールが現れる上に至近距離まで球筋が見極められず、非常に打ちづらい事で知られる。
 
通算[[投球回]]数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手4人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率10.61はMLB史上1位である<ref>[http://mlb.mlb.com/stats/sortable.jsp#sectionType=sp&sortColumn=k_9&season=&league_code='MLB'&statType=pitching&game_type='R'&elem=%5Bobject+Object%5D&tab_level=child&click_text=Sortable+Player+pitching&season_type=ALL&page=1&ts=1381771679978&sortOrder='desc'&extended=2&split=&playerType=ALL&timeframe= MLB>Stats>All-Time Totals>Pitching>9_K]</ref>。
177 ⟶ 181行目:
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス|ARI]]
|10||10||0||0||0||4||3||0||0||.571||233||56.2||52||7||13||3||4||72||1||0||26||24||3.81||1.15
|-
187 ⟶ 191行目:
|22||17||0||0||0||8||6||0||0||.571||412||96.0||97||19||31||2||2||86||5||1||55||52||4.88||1.33
|-
!colspan="2"|通算[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:22年
|618||603||100||37||19||303||166||2||0||.646||17067||4135.1||3346||411||1497||37||190||4875||109||33||1703||1513||3.29||1.17
|}
235 ⟶ 239行目:
 
== 脚注 ==
{{reflist|2Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 J]]
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|Randy Johnson}}
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*[http://mlb.mlb.com/mlb/events/johnson300/index.jsp Randy Johnson: 300-win club SFGiants.com]
 
{{アメリカ野球殿堂表彰者 (投手)}}
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