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[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]により、江戸幕府は滅亡した。慶応4年([[1868年]])1月の[[戊辰戦争]]で徳川家は明治新政府に敗れ、第15代将軍・[[徳川慶喜]]は朝敵となる。しかし閏4月29日、新政府の中核の一人である[[三条実美]]は徳川家の存続に尽力し、慶喜に代わって田安亀之助([[徳川家達]])を[[徳川将軍家|徳川宗家]]の相続者とし、5月24日には駿河・遠江・[[陸奥国|陸奥]]などに70万石を与えた。こうして、静岡藩が立藩された。ちなみに、陸奥の領地は9月4日に[[三河国|三河]]に変更されている。なお、この移封に伴って駿河国の3藩([[沼津藩]]・[[田中藩]]・[[小島藩]])と遠江国の4藩([[浜松藩]]・[[相良藩]]・[[横須賀藩]]・[[掛川藩]])が[[上総国|上総]]・[[安房国|安房]]両国に転封とされ、両国に所領を持っていた他藩も替地を与えられている。
 
明治2年([[1869年]])6月20日 府中([[駿府]])は、[[朝廷]]([[維新政府]]・[[明治政府]])や[[天皇]]に対し「不忠」に通じるとして、静岡と改名し、藩名も静岡藩となった。直後6月17日、静岡を命名したのは[[向山黄村]]([[静岡学問所]]頭取)である。この時に家達は[[版籍奉還]]により静岡[[知藩事|藩知事]]に任じられた。明治2年([[1869年]])[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]から[[十勝国]][[上川郡 (十勝国)|上川郡]]、[[中川郡 (十勝国)|中川郡]]、[[河東郡]]、[[十勝郡]]を管轄。明治4年([[1871年]])7月14日、[[廃藩置県]]で静岡藩は廃藩となった。
 
藩主家である徳川宗家は、明治17年([[1884年]])に[[公爵]]に叙爵された。