「アレクサンダー・グラハム・ベル」の版間の差分

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ブラントフォードで実験を続け、ベルは実動する電話機を自宅に持ち込んだ。1876年8月3日、ブラントフォードと約8km離れた電信局から、準備完了したことを知らせる電報を送った。証人として見物人を集めた状態で、ささやき声のような応答が返ってきた。次の夜、ブラントフォードからベル家までの約6kmを電信線やフェンスに沿わせたり、トンネルをくぐったりして電話線を即席にひいて、家族や客を驚かせた。これらの実験で、電話が長距離でも作動することをはっきりと証明した<ref>{{Harvnb|MacLeod|1999|p=14}}</ref>。
 
1876年の電話の実験成功の直後に、東京音楽ボストンの師範学校の校長となるに留学中だった[[伊沢修二]](のちの東京音楽学校校長)と留学生仲間であるのちの司法[[ハーバード学]]にいた[[金子堅太郎]](のちの司法大臣)ベル宅で電話を使って会話をしており、[[日本語]]が世界で2番目に電話を通して通話された言語になった。[[1877年]]には電話機を日本へ輸出している。
 
[[ファイル:Alexander Graham Telephone in Newyork.jpg|thumb|1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル]]
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* [[正高信男]]は自著『天才はなぜ生まれるか』(中公新書)で、ブルース著『孤独の克服―グラハム・ベルの生涯』を読んだ上で、ライバルとの競争や後援者からの重圧に耐えかねているベルの様子から人間づきあいが下手であると主張。[[自閉症]]であったとし、さらに[[高機能自閉症]]([[アスペルガー症候群]])ではないかと主張している。
 
== 日本との関係 ==
前述のように、1876年に米国留学中だった[[伊沢修二]]と[[金子堅太郎]]は電話発明の噂を聞きつけ、ベルの下宿先を訪問した。金子の回想によると、その家はボストン北部にある中流以下の住宅街にあり、思わず尻込みするほどの貧しい雰囲気で、屋根裏にあったベルの部屋も飾り気ひとつない殺風景なものだった<ref name=kaneko>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234839/174 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏]『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935) </ref>。実用化に向けて資本家を探していたベルは、外国人が興味を持ってくれたことに電話の将来を暗示されたようで嬉しいと語り、外国語で通話するのは初めてだと言って、居室と隣の実験室とに電話機を置いて二人に実験するよう勧めた<ref name=kaneko/>。
 
1898年にはベルが来日し、東京と京都を訪れて講演したほか、天皇にも謁見し、勲三等を受勲するなど外国人としては破格の優遇を受けた<ref name=kaneko/>。講演では米国聾教育事情の紹介と日本への提言のほか、全米地形地質学会の会長でもあったベルは雨量と山岳の多い日本は水力エネルギーの宝庫であると指摘し日本の将来を鼓舞した<ref name=helen>[http://www.thka.jp/shupan/journal/201402.html 48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり(35)ろう教育史料も]点字ジャーナル 2014年2月号、第45巻2号(通巻第525号)、東京ヘレンケラー協会</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=479 ダムインタビュー(26)竹村公太郎さんに聞く「未来を見通したインフラ整備が大事で、ダムの役目はまだまだ大きいですよ」]一般財団法人日本ダム協会、2010年7月</ref>。東京での講演は伊沢修二が『唖子教育談』としてまとめ、京都での講演については京盲文書が『ベル氏来院記』として出版した( 2013年に『ベル来日講演録 ―東京・京都―』(近畿聾史グループ編)として復刻)<ref name=helen/>。
 
1904年に金子が[[日露戦争]]のための外債募集に渡米した際には、ロシアの勝利を信じて日本国債購入に消極的であった米国要人に日本の実情を説明し、募債の成立に協力した<ref name=kaneko/>。このときベルの秘書をしていたグロブナーはベルの娘と結婚し、その長女(ベルの孫)は駐日米国大使館書記官夫人として来日し、日本で子供も生した<ref name=kaneko/>。
 
== 脚注 ==