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== 日本の傷痍軍人 ==
[[File:Wounded Soldier in Japan.JPG|thumb|[[第二次世界大戦]]後の傷痍軍人。(1948年12月)]]
日本においても[[日露戦争]]後に大量の傷痍軍人が出現して大きな社会問題となり、国家により救済支援制度が整備された。また、[[第二次世界大戦]]において多くの軍人が戦死、あるいは傷痍軍人となった。戦時下においては戦傷もまた名誉の負傷とされ、在世中の'''[[軍人傷痍記章]]'''を着けることを許され、社会的に優遇を受けることもあった。
 
ポツダム宣言による第二次世界大戦の停戦後、連合国の占領下で軍事援護の停止による恩給の打ち切りなど、戦傷を負った人々とその家族の生活は困窮と苦難のふちにあった。[[サンフランシスコ講和条約]]発効による主権回復のあと、軍人恩給の復活とともに傷病者への支援に改善をみた<ref>[http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2014/0315.html ETV特集戦傷病者の長い戦後]</ref>。戦後、厚生省のもとでその補償がなされるようになり、軍人恩給等の対象ともなった。財団法人[[日本傷痍軍人会]](会員の高齢化により[[2013年]]11月30日、結成60周年で解散<ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013100301001173.html | title = 日本傷痍軍人会が解散式 会員の減少、高齢化で | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2013-10-03 | accessdate = 2014-05-01 }}</ref>)を中心として、各地に[[傷痍軍人会]]が設立され、傷痍軍人の生活の援護と親睦福祉増進を図る事業が展開されている。
[[21世紀]]となって、日本における傷痍軍人は既に亡くなった者が多いが、生存者に対する慰労や補償とともに、物故者に対する慰霊や顕彰、遺族補償の問題は未だ大きな問題となっている。
 
傷痍軍人と呼ばれた戦傷兵の収容と看護は、法の成立・改正により次のような変遷を経ている。日露戦争開戦2年で大量の傷病兵[[本土]]へ帰還をみしたため、[[1906年]](明治39年)4月廃兵院法成立後、[[廃兵院]]が各地に設けられた。[[1934年]](昭和9年)3月の傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、[[1938年]](昭和13年)[[厚生省]]が設けられ傷兵院は厚生省外局の[[傷兵保護院]]に所属とした。その翌年には傷兵保護院は軍事保護院に改称され、付属として各地に傷痍軍人療養所が併設された。
 
連合国軍占領下の[[1945年]](昭和20年)12月には[[陸軍病院]]と[[海軍病院]]合わせて146の施設は[[国立病院]]となり、同時に傷痍軍人療養所53施設は[[国立療養所]]となった。[[2004年]](平成16年)4月全国の国立病院と[[国立療養所]]基本的に[[国立病院機構]]の下に病院や医療センターとなっている(ハンセン病療養所の一つである[[国立駿河療養所]]は除く
ちなみに、ハンセン病傷痍軍人のための療養所として開所した[[国立駿河療養所]]は、[[厚生労働省]]直属の[[国立ハンセン病療養所]]である。
 
傷、痍ともにキズ([[傷]])を意味するが、大きな傷として腕や脚を失った傷痍軍人も多くいた。軽傷の者は[[復員]]後[[故郷]]に晴れて戻ったが、体の一部を戦禍で失ったこれら元軍人は仕事に就ける訳でもなく、その生涯の多くを国立療養所やその後の[[国立病院機構]]で過ごすこととなった。日々の生活はそこで送っていたものの、都会の人通りが多い駅前や、地元の[[祭り]]や[[縁日]]にはその場に来て、[[露天商]]が並ぶ通りなどの通行人から金銭を貰い小遣いとした。
 
=== 傷痍疾病等差 ===
正しくは陸(海)軍人軍属傷痍疾病等差。軍人軍属の傷痍疾病は原因によって一等症および二等症に区分された。一等症は
 
一等症は
* 公務によって傷痍を受け、または疾病に罹ったとき
* 恩給法に該当する流行病に罹ったとき
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二等症は
 
* 一等症以外の原因によって傷痍を受け、または疾病に罹ったとき
* 前号の傷痍疾病一旦治癒の後再発したとき