「慶照寺」の版間の差分

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=== 田坂規仲 ===
田坂教春(孝春)は、出家前は田坂規仲と言い現在の三原市小坂町にあった[[稲村山城]]城主[[田坂義詮]](善詮)の子供である、田坂家は[[土肥氏]]の庶流とも言われ[[応永]]年間([[1394年]]-[[1427年]])に同じく土肥氏の庶流の[[小早川春平]]によって[[下野国]]から招かれて代々[[沼田小早川氏|沼田小早川家]]の家臣で家老職を務める家柄であった。父親の田坂義詮の代に沼田小早川家の相続問題が起こり、[[竹原小早川氏|竹原小早川家]]を継いでいた[[毛利元就]]の子供の[[小早川隆景]]を招き入れることに強く反対していた。このため小早川隆景が沼田小早川家を継いだ後に[[日名内玄心]]により暗殺、稲村山城も落城をした。その際に現在の尾道市[[御調町]]市の[[照源寺]]へと落ち延び、照源寺の知春の弟子となった<ref name=":0">{{Cite book|author=広島県|title=広島県史|date=大正12年|year=|accessdate=|publisher=|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
 
=== 移転 ===