「海と毒薬」の版間の差分
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遠藤が九州大学病院の建物に見舞い客を装って潜り込んだ際、屋上で手すりにもたれて雨にけぶる町と海とを見つめ、「海と毒薬」という題がうかんだという。評論家の[[山本健吉]]は、「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」としている。
== 感想文 ==
「海と毒薬」がこの作品の題名である。取り立てて文字通りの海に焦点を当てているのではなく、毒薬が登場するわけでもないこの作品における「海」とは、「毒薬」とはいったい何だろうか。
私は、生体解剖に臨む勝呂(すぐろ)の心象描写にそのヒントがあるのではないかと考えた。
「あれでもそれでも、どうでもいいことだ。考えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。」
捕虜の生体解剖において、終始傍観者であり続けた勝呂の感情はこのように表現されていた。自分の目の前でこれから人が殺されるというのに、彼はその行為の是非から目を背けていた。
戦争や医学の進歩を言い訳にして、事を荒立てず、楽な道へ楽な道へと流れる自分を正当化する勝呂。
彼のような考えは、戦争が終わった現在の社会においても、形を変えて至る所でみられるのではないだろうか。
冒頭で触れた、「海」とは、目に見えない他者や社会からの圧力を示しており、そして、その毒薬とはその「海」に隠されている悪意や不道徳を暗示しているのではないかと私は解釈した。
もし海に数滴の毒薬を垂らしたところで、そこに誰もが気付く顕著な変化は恐らく見られないだろう。
しかし、たとえそうであるとしても毒薬はやはり毒薬であり、ともすれば生命を奪いかねないほどの力を持っていることを忘れるべきではないだろう。
私たちが「海」の中で生きなければならないことはもはや逃れようのない事実である。
しかし、その「海」に垂らされる「毒薬」に敏感であること、そして自分自身が「毒薬」にならないよう、私たちは常に省み続けなければならないのだ。
==あらすじ==
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