「連合軍軍政期 (ドイツ)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
58行目:
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|変遷1 = [[無条件降伏#ナチス・ドイツ|無条件降伏]]
|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = [[1945年]][[5月8日]]
|変遷2 = {{仮リンク|連合国管理理事会|label=管理理事会設置|en|Allied Control Council}}
|変遷2 = [[西ドイツ]]成立
|変遷年月日2 = [[19491945年]][[57235日]]
|変遷3 = [[ドイツ民主共和国ザール (フランス保護領)|東ドイツザール分離]]成立
|変遷年月日3 = [[19491947年]][[1012715日]]
|変遷4 = [[西ドイツ再統一]]成立
|変遷年月日4 = [[19901949年]][[105323日]]
|変遷5 = [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]成立
|変遷年月日5 = [[1949年]][[10月7日]]
|変遷6 = [[ザールラント州|ザール復帰]]
|変遷年月日6 = [[1957年]][[1月1日]]
|変遷27 = [[西ドイツ再統一]]成立
|変遷年月日7 = [[1990年]][[10月3日]]
|通貨 =
|時間帯 =
77 ⟶ 83行目:
[[ファイル:Occupied Berlin.svg|center|250px]]<br><center><small>ベルリン市の連合国各国の占領域</small></center>
}}
[[ドイツ]]の'''連合軍軍政期'''(れんごうぐんぐんせいき)は、[[ドイツの歴史]]において、[[第二次世界大戦]]で[[フレンスブルク政府]]が降伏した[[1945年]][[5月8日]]から、[[ドイツ民主共和国|ドイツ]]・[[西ドイツ]]が相次いで成立する[[1949年]]までの間、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国4か国軍]]による[[占領統治]]が行われていた時代である。1945年から[[1990年]]まで続いた'''[[分断時代のドイツ|分断時代]]'''の第1前半部(4か国の分断国家割占領状態)に当たり、る<ref>分断時代の第2後半部は、ドイツが西東で2つの[[分断国家の時代(1949]]となっていた1949 - から[[1990年]]までの期間である。</ref>
 
[[連合軍軍政期 (オーストリア)|連合国が同時期に占領したオーストリア]]と異なり、ドイツは[[ベルリン宣言]]によって[[中央政府]]の存在が否定され、東西ドイツ成立時にいずれの政府も「[[ナチス・ドイツ]]に代わるドイツ中央政府」と連合国から認められなかった。その為、[[冷戦]]終結に伴い[[ドイツ最終規定条約]]が締結されるまで、ドイツの一部[[主権]]は連合国が引き続き有する状態が続いた<ref>たとえば、[[ベルリン]]は東西ドイツ成立後も米・英・仏・ソの共同占領地域のままであり、西ドイツの[[航空機]]の[[西ベルリン]]乗り入れは大きく制約されていた。</ref>。
 
==概要==
87 ⟶ 95行目:
== 経緯 ==
===占領政策の討議===
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]のドイツ占領統治に関する討議が本格化したのは1943年12月の[[テヘラン会談]]以降であった。[[:en:Moscow Conference (1943)|1943年のモスクワ会談]]で合意していた{{仮リンク|欧州諮問委員会|en|European_Advisory_Commission}}の設置がテヘラン会談で決定され、この委員会が占領政策の検討を行うこととなった。諮問委員会は米・英・ソが参加する{{仮リンク|連合国管理理事会|en|Allied Control Council}}の統括による[[占領統治]]を行うことを勧告され、1944年9月12日のロンドン会議で米・英・ソ三国による占領統治が決定された{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=68}}。1945年1月の[[ヤルタ会談]]では米・英・ソにフランスを加えた四カ国で占領地域の分担すること、全ドイツに関する決定は四カ国軍司令官が共同で参加する管理理事会が行うが、個別の占領地域においては担当国の軍司令官が単独で決定が行えることとなった{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=68}}。また[[オーデル・ナイセ線]]以東は[[ポーランド]]の統治下と決定した。連合国軍は占領した地で新たな州(ラント)の自治政府を建設し、それぞれの占領地域で占領行政は個々に開始されていた{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=68}}。
 
=== 占領統治開始 ===
フレンスブルク政府はドイツの敗戦処理政府として存続することを望んだが、5月20日にソ連が彼らを政府として承認しない姿勢を明確にし、他の連合国も追随した。このため5月23日にフレンスブルク政府の閣僚は連合国に逮捕され、ドイツには政府が存在しない状態となった。6月5日、[[ベルリン]]において米・英・ソ・仏の軍事司令官によは、中央政府の不在と軍政開始を宣言する[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]発表され中央政府7月5日に占領統治不在統括機関軍政開始が宣言されして{{仮リンク|連合国管理理事会|en|Allied Control Council}}を設置した。連合国は8月2日の[[ポツダム会談]]でベルリン宣言を確認し、欧州諮問委員会にかわって四カ国外相が討議する[[外相理事会]]を設置することとなっにした。さらに占領政策の基本方針として「ドイツ管理機構に関する協定」([[ポツダム協定]])を策定し、「占領下のドイツは一つの経済単位として扱う」こと決定された{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=57}}。しかし折からの[[冷戦]]勃発の影響で、統一的なドイツ統治は実行されず、協議を行う外相理事会も失敗を重ねた。各占領区域の軍政当局は、住民、地方と州政府に対して、それぞれ異なった政策を行った。
 
=== 西側とソ連の対立 ===