「盧循の乱」の版間の差分

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== 蜂起と北進 ==
[[410年]]([[義熙]]6年)2月、盧循らはついに挙兵し、諸郡を襲撃した。守相(郡国の長官)たちは皆任務を放棄して逃げ出した。[[劉牢之]]の女婿で鎮南将軍の[[何無忌]]は軍を率いてこれを阻もうとしたが、敗れて殺された。盧循は徐道覆を派遣して江陵(湖北省江陵県荊州市荊州区)を攻撃させたが、行軍途中で官軍に破れた。
 
盧循は都を攻めようとする徐道覆の建言を入れ、10万の兵士と数千艘の船で揚子江を下った。衛将軍の[[劉毅]]を桑落洲(江西省九江市付近)で破ると、直行して江寧([[江蘇省]][[南京市]]西南)に到着した。徐道覆は決断力のある人物で、劉裕がすでに都に戻っていたのを知ると決戦を考えて盧循を説得したが、決断力に乏しい盧循は万全の計を用いようとしたので聞き入れなかった。