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同年9月に西域で反乱が勃発し、12月に実父の清河王が死去した。
 
[[永初 (漢)|永初]]([[107年]])元年、2月には清河国が分割される一方、9月には鄧氏の母の陰氏に新野君が与えられた。この月に[[西域都護]]が廃止された。秋9月、太尉の[[徐防]]、司空の[[尹勤]]が免職され、[[張禹]]と[[周章]]が後任とされるが、11月には周章が帝位の廃立を目論んだとして誅殺された。この間、10月には[[倭]]国王[[帥升]]らが生口160人を献じ、謁見を請うた。12月、司空の後任として[[張敏]]が迎えられた。
 
=== 天災と反乱 ===
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永初3年([[109年]])春正月、安帝は元服した。先零羌討伐に騎都尉の[[任仁]]を派遣したが、戦況は不利であった。[[高句麗]]の使者が来た。この頃の後漢帝国には飢饉が蔓延していたが、3月にはとうとう京師にまでそれが及んだ。司徒の[[魯恭]]が免職となり、4月に[[夏勤]]が後任となった。安帝の実家の清河王家の継嗣が死去したため、5月に楽安王家から後継を迎えた。秋7月には海賊の被害が出て、侍御史の[[龐雄]]に州郡の兵士を率いさせこれを討伐した。9月には[[烏桓]]と[[鮮卑]]が反乱し、五原郡に被害がでた。冬10月には[[匈奴]]の南[[単于]]が反乱を起こし、中郎将の[[耿种]]を派遣し、11月には車騎将軍の[[何熙]]をも遣わした。12月には引き続く天災により、并州と涼州ではひどい飢饉となっていた。
 
永初4年([[110年]])春正月、前年の海賊の被害が拡大していたため、御史中丞の[[王宗]]と青州刺史の[[法雄]]に討伐させ、これを破った。また、[[度遼将軍]]の[[梁慬]]と遼東太守の[[耿夔]]に命じて匈奴の南単于を攻撃させた。2月には初めて長安に雍二営都尉が設置された。3月に匈奴の南単于は降伏したが、先零羌は引き続き猛威を振るっていた。秋7月には騎都尉の任仁は獄に下され死去している。この間、[[劉珍]]と[[五経博士]]に命じて東観の経典を校定させた。冬10月には新野君とされていた陰氏が死去した。
 
永初5年([[111年]])春正月、日食が起きた。太尉の張禹が免職となり、李修が後任となった。先零羌の活動は続き、漢人にもこれに与する者が現れ始めた。