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* [[藤尾慎一郎]]は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている<ref>藤尾慎一郎『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』p34</ref>。
* 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』p172</ref>。
* [[佐藤洋一郎]]によると、風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた<ref>「稲の日本史」 佐藤洋一郎 P16 「今では、風張遺跡の米は貢物か何かとしてはるか遠方から運んできたものだろうということになっている。米粒は種子として運ばれたのではなく、ひすいや宝物などとともに持ち込まれたのかもしれない。」</ref>。風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う<ref>逆転の日本史編集部『日本のルーツがわかる本』p84、p88、佐藤洋一郎「米 日本列島に最初に稲作を持ち込んだのは縄文人だった」</ref>。ただし、[[佐藤洋一郎]]は[[埴原和郎]]が『日本人2重構造説』で唱えた稲作が大きな人類集団の渡来を伴ったという説には否定的であり、稲の小さな集団が渡来したと考えている<ref>{{PDFlink|[http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/4033/1/SER84_007.pdf 佐藤洋一郎、イネにおける栽培と栽培化]}} 山本紀夫編『ドメスティケーション―その民族生物学的研究』 国立民族学博物館調査報告 84:119-136(2009), p134</ref>。
*[[分子人類学]]者の[[崎谷満]]も、[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に[[水稲]]をもたらしたとしていた<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。