「蔚山飛行場 (初代)」の版間の差分

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1929年(昭和4年)4月1日、[[日本航空輸送]]が運航する第一便が[[大連市|大連]]の[[大連周水子国際空港|周水子]]から蔚山に到着した<ref>「いよいよ今朝から 空中輸送開始さる――立川発着塲からまづ大阪へ――二機一せいに出發」『東京朝日新聞』第一萬五千四百九號、昭和四年四月一日朝刊、7面。</ref><ref>「蔚山へ――乾機の飛行」『東京朝日新聞』第一萬五千四百十號、昭和四年四月二日(一日付夕刊)、1面。</ref>。日本航空輸送はのちに福岡-蔚山間の渡洋区間を加え、東京と大連を結ぶ路線として運航するようになり、蔚山飛行場は同路線の中間帰着地として機能した。1930年(昭和5年)7月には蔚山航空無線局も設置された。1935年(昭和10年)には蔚山橋が改築され、飛行場への交通条件が改善された。
 
しかし機材の大型化が進むと蔚山飛行場の施設では対応できなくなり、1937年(昭和12年)に[[大邱飛行場]]が開設されると慶尚道の飛行場としては大邱が用いられるようになった。地元住民は大邱への機能移転に反対したが容れられることはなく、蔚山飛行場は不時着場の位置付けとなった。後に日本陸軍が入り、練習機用の飛行場として活用した。
 
[[朝鮮戦争]]時には[[アメリカ合衆国軍]]が非常用滑走路に指定していた。戦後も[[大韓民国国防部]]が有事に備えて用地の一部を確保していたが、蔚山の都市化の進展とともに、1980年代までに全ての用地が払い下げられ、飛行場のあった場所は住宅団地になっている<ref>『蔚州郡誌』蔚州郡誌編纂委員會、263ページ</ref>。