「式守伊之助」の版間の差分

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11代勘太夫の41代伊之助襲名が決定
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60歳を過ぎてから襲名する者が多く、[[式守伊之助 (19代)|19代]]<ref>19代は定年制導入以前である。</ref>、[[式守伊之助 (27代)|27代]]、[[式守伊之助 (30代)|30代]]、[[式守伊之助 (34代)|34代]]が64歳、[[式守伊之助 (26代)|26代]]が63歳で襲名している。若年の襲名は[[式守伊之助 (6代)|6代]]<ref>6代は生年月日が不明である。</ref>と[[式守伊之助 (8代)|8代]]が40歳、[[木村庄之助 (27代)|23代]]が48歳、[[式守伊之助 (40代)|40代]]は54歳で襲名している。
 
[[明治]]年間に[[本場所]]で[[勧進]]元を務めた伊之助が開催直前に死去し亡くなり、いわゆる「[[位牌]]勧進元」が続いた。[[式守伊之助 (5代)|5代]]、6代、[[式守伊之助 (7代)|7代]]、8代、[[式守伊之助 (9代)|9代]]と5人続けて現役で亡くなり、[[式守伊之助 (14代)|14代]]は[[1926年]]1月場所から襲名となるが伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死した。1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。のちに「伊之助の祟り」とも喧伝されて恐れられた。
 
[[木村庄之助 (17代)|10代]]以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。