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[[1899年]]、[[義和団の乱]]が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、[[日本人]]の[[大月薫]]と[[駆け落ち]]に近い形で[[結婚]]した。また、[[浅田春]]という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
 
====アメリカとヨーロッパへ====
のち[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を経てイギリスに渡り、一時[[清国]]公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に[[革命家]]として有名になる。この直後の[[1904年]]、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、[[ハワイ]]の[[マウイ島]]生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した<ref>{{cite news |title=孫文:米国籍取得…米政府の資料で判明、安全のため|author= |newspaper=毎日新聞|date=2011-06-07|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20110608k0000m030045000c.html|accessdate=2011-11-05}}</ref>。
以後、革命資金を集める為、[[世界]]中を巡った。
 
[[1905年]]に[[ヨーロッパ]]から帰国をする際に[[スエズ運河]]を通った際に、現地の多くの[[エジプト人]]が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、[[日露戦争]]での日本の勝利が[[アラブ人]]ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。
 
長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「[[辮髪]]もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で[[東京府]][[池袋]]にて興中会、[[光復会 (清国)|光復会]]、[[華興会]]を糾合して[[中国同盟会]]を結成。ここで東京に留学中の[[蒋介石]]と出会う。
 
=== 中華民国建国 ===