「ジョージ6世 (イギリス王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
11行目:
|全名 ={{Lang|en|Albert Frederick Arthur George}}<br />アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ
|出生日 ={{生年月日と年齢|1895|12|14|no}}
|生地 ={{GBR}}<br>{{ENG}}、[[ノーフォーク]]、[[サンドリンガム・ハウス]]
|死亡日 ={{死亡年月日と没年齢|1895|12|14|1952|2|6}}
|没地 ={{GBR}}<br>{{ENG}}、[[ノーフォーク]]、[[サンドリンガム・ハウス]]
|埋葬日 =[[1952年]][[2月15日]]
|埋葬地 ={{GBR}}<br>{{ENG}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]、[[ウィンザー城]][[:en:St George's Chapel at Windsor Castle|セント・ジョージ礼拝堂]]
|継承者 =
|継承形式 =
36行目:
1936年にジョージ5世が死去し、長兄エドワードがエドワード8世としてイギリス国王に即位した。しかしながら、即位間もないエドワード8世は、王太子時代から交際のあった離婚歴のあるアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を望み、議会との対立を深めていく。当時の[[イギリスの首相|首相]][[スタンリー・ボールドウィン]]は、政治的、宗教的理由から、国王に在位したままでのシンプソンとの結婚は不可能であると、エドワード8世に勧告し、最終的にエドワード8世はイギリス国王からの退位を決め、弟のジョージがジョージ6世としてイギリス国王に即位した。
 
ジョージ6世の治世は、[[イギリス]]の国力と地位が相対的に低下し、[[イギリス帝国|大英帝国]]の解体が進展するとともに、同盟国である[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]と複雑な関係を抱えながら世界大戦を戦うという困難なものであった。1939年には[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]問題をめぐって[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と対立し、イギリスおよびイギリス連邦([[アイルランド]]を除く)は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側として[[第二次世界大戦]]に参戦し、[[枢軸国]]側だった[[イタリア王国|イタリア]]や[[大日本帝国|日本]]などと世界各地で戦った。ジョージ6世は首相[[ウィンストン・チャーチル]]と強く連携し、5年間に及ぶ戦争期間中国民の士気を支え続けた。第二次世界大戦で連合国側が完全勝利を収めたが、その後成立したのはアメリカとソ連の二大[[超大国]]体制であり、イギリスは覇権国の地位から完全に失墜した。1947年には[[インド]]と[[パキスタン]]が[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]し、インド皇帝の称号を1948年6月に失っている。[[1949年]][[4月28日]]には新設された「イギリス連邦元首」となったが健康を損ない、[[1952年]][[2月6日]]に満56歳にして崩御した。王位は長女のエリザベス王女が[[エリザベス2世]]として即位することでイギリス女王およびイギリス連邦君主として継承した。
 
== 生涯 ==
92行目:
報道記者でもあった宮廷人[[ダーモット・モラー]]は、当時の宮廷内には、ヨーク公アルバートとその子女、弟グロスター公ヘンリーよりも、末弟ケント公ジョージこそがイギリス国王に相応しいという雰囲気があったと断言している。これは、当時の前国王ジョージ5世の王子たちの中で、ジョージだけに男子(後にケント公を継いだ[[エドワード (ケント公)|エドワード]])がいたことが影響していると考えられている<ref>Howarth, p. 63; Judd, p. 135</ref>。
 
=== 初期 ===
[[ファイル:Darlington God save the king..JPG|thumb|left|ジョージ6世の国王戴冠を祝って飾り付けられたダーリントン市役所(1937年)。屋根に「神よ国王を護り賜え (God Save the King)」の文字が見える]]
アルバートは統治名 ([[尊号]]) にジョージ6世を選んだ。これは父王ジョージ5世の方針を引き継ぐことと、エドワード8世の退位騒動で揺らいだ王室への信頼を回復するという、アルバートの意思の表れだった<ref>Howarth, p. 66; Judd, p. 141</ref>。新たな国王ジョージ6世が最初に直面した問題は、前国王である兄エドワードの地位や称号の処遇だった。
107行目:
ヨーロッパで高まる戦争への気運が、ジョージ6世の統治初期に大きな影響を与えた。憲法上、国王たるジョージ6世には、首相[[ネヴィル・チェンバレン]]が推進する[[アドルフ・ヒトラー]]への[[宥和政策]]に協力する義務があった<ref name="matthew"/><ref>Sinclair, p. 230</ref>。1938年の[[ミュンヘン会談]]で、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認める協定を締結したチェンバレンを迎えた国王夫妻は、チェンバレンに[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった<ref name="matthew" />。
 
当時のイギリス国民からは広く歓迎された、チェンバレンの対ヒトラー宥和政策だったが、[[イギリスの議会|イギリス議会]][[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]ではこの政策に反対する意見もあった。歴史家ジョン・グリッグ ([[:en:John Grigg]]) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」としている<ref>Hitchens, Christopher (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/01/queenmother.monarchy9 "Mourning will be brief"], ''The Guardian'', retrieved 1 May 2009</ref>。
 
[[ファイル:RoyalVisitSenate.jpg|thumb|right|1939年5月19日に、カナダ議会で法案を裁可 ([[:en:Royal Assent]]) するジョージ6世。右に座っているのは王妃エリザベス]]
114行目:
[[カナダの総督|カナダ総督]][[ジョン・バカン]] (John Buchan, 1st Baron Tweedsmuir) とカナダ首相マッケンジー・キングは共に、今回のイギリス国王のカナダ訪問が、1931年に発布された[[ウェストミンスター憲章]]の精神の実証となることを望んでいた。ウェストミンスター憲章は、各イギリス自治領に完全な自治権を与え、イギリス国王をそれぞれの国が自国の国王として戴くという憲章である。ジョージ6世のオタワでの滞在先は総督公邸のリドー・ホール ([[:en:Rideau Hall]]) で、この場所でジョージ6世は新たにカナダに赴任するアメリカ公使[[ダニエル・カルフーン・ローパー]]の信任状を受領し、認可している。イギリス国王夫妻のカナダ訪問の公式記録者であるカナダの歴史家ギュスターヴ・ランクト ([[:en:Gustave Lanctot]]) は、イギリス国王のカナダ訪問の様子を「国王陛下ご夫妻がカナダでの滞在先(リドー・ホール)に入られたときに、ウェストミンスター憲章が真の意味で完全なものになった。カナダ国王が自国へと帰還されたのである」としている<ref>{{citation| last=Galbraith| first=William| title=Fiftieth Anniversary of the 1939 Royal Visit| journal=Canadian Parliamentary Review| volume=12| issue=3| pages=7–9| publisher=Commonwealth Parliamentary Association| location=Ottawa| year=1989| url=http://www2.parl.gc.ca/Sites/LOP/Infoparl/12/3/12n3_89e.pdf| accessdate=14 December 2009| format=PDF| archiveurl=https://www.webcitation.org/5lMOJu1h1?url=http://www2.parl.gc.ca/Sites/LOP/Infoparl/12/3/12n3_89e.pdf| archivedate=2009年11月17日| deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
このイギリス国王夫妻の北米訪問には、当時[[ヨーロッパ]]で高まりつつあった諸国間の緊張のために、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[カナダ]]の民衆の間に現れつつあった強固な[[孤立主義|孤立主義者]]たちの態度を軟化させるという意義もあった。近いうちにヨーロッパで起こるであろう戦争に備えて、イギリスへの支援を要請するという政治的目的を主眼とした公式訪問ではあったが、ジョージ6世とエリザベスは北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けている<ref>Judd, pp. 163–166; Rhodes James, pp. 154–168; Vickers, p. 187</ref>。
 
前国王エドワード8世に比べてジョージ6世は見劣りがするのではないかという噂もあったが、そのような懸念は見事に払拭された<ref>Bradford, pp. 298–299</ref>。ジョージ6世とエリザベスはカナダからアメリカに向かい、1939年の[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク万国博覧会]]に出席した。アメリカでは大統領公邸の[[ホワイトハウス]]でアメリカ大統領[[フランクリン・ルーズヴェルト]]と会談し、ハイド・パーク ([[:en:Hyde Park, New York]]) にあったルーズヴェルトの私邸 ([[:en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site]]) を訪問している<ref>''The Times'' Monday, 12 June 1939 p. 12 col. A</ref>。アメリカ公式訪問を通じて、イギリス国王夫妻とアメリカ大統領ルーズヴェルトとの間に強い信頼関係が結ばれ、この友情が第二次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼした<ref>{{citation |last=Swift |first=Will |title=The Roosevelts and the Royals: Franklin and Eleanor, the King and Queen of England, and the Friendship that Changed History |publisher=John Wiley & Sons |year=2004}}</ref><ref>Judd, p. 189; Rhodes James, p. 344</ref>。
 
=== 第二次世界大戦 ===
[[ファイル:Eleanor Roosevelt, King George VI, Queen Elizabeth in London, England - NARA - 195320.jpg|250px|thumb|left|渡英しロンドンを訪れたアメリカ大統領夫人エレノア・ルーズヴェルト(中央)と国王ジョージ6世、王妃エリザベス(1942年10月23日)]]
[[ファイル:Special Film Project 186 - Buckingham Palace 2.jpg|250px|thumb|right|[[1945年]][[5月8日]]の[[ヨーロッパ戦勝記念日]]をうけて、[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーに立つ国王ジョージ6世一家とチャーチル首相]]
[[1939年]][[9月3日]]に、イギリスとアイルランド自由国以外のイギリス自治領は、[[9月1日]]に[[ポーランド]]を侵略した[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に宣戦布告した<ref>Judd, pp. 171–172; Townsend, p. 104</ref>。
 
ジョージ6世と同妃エリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による[[ザ・ブリッツ|大空襲]]にさらされても、ロンドンにとどまることを選択した。公式には、大戦を通じて国王夫妻は[[バッキンガム宮殿]]に居住していたとされているが、空襲を受けることも多い夜間には[[ウィンザー城]]で過ごすことのほうが多かった<ref>Judd, p. 183; Rhodes James, p. 214</ref>。最初にロンドンが爆撃されたのは1940年9月7日で、このときには[[テムズ川]]北側の[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イースト・エンド]]を中心に、およそ1,000人の民衆が犠牲になった<ref>{{citation|last=Arnold-Forster|first=Mark|year=1983|origyear=1973|title=The World at War|location=London|publisher=Thames Methuen|isbn=0-423-00680-0|page=303}}</ref>。9月13日にはドイツ空軍機が投下した2発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった<ref>{{citation |last=Churchill |first=Winston |title=The Second World War |publisher=Cassell and Co. Ltd |year=1949 |volume=II |page=334}}</ref>。王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである<ref>Judd, p. 184; Rhodes James, pp. 211–212; Townsend, p. 111</ref>。
 
国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と耐乏を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国のファースト・レディ|米大統領夫人]][[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]も、訪英中の[[バッキンガム宮殿]]滞在に食事に配給物資が出されたこと、風呂入浴する際に浴槽の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、[[ザ・ブリッツ|ドイツ空軍の空襲]]の被害を受けて壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している<ref>{{citation|last=Goodwin|first=Doris Kearns|title=No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II|location=New York|publisher=Simon & Schuster|year=1994|page=380}}</ref>。
 
1940年にチェンバレンに代わって、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ウィンストン・チャーチル]]が首相となり、戦時の挙国一致内閣として[[第1次チャーチル内閣]]が発足した。しかしながら、ジョージ6世が首相に相応しいと内心で思っていたのは[[外務・英連邦大臣]]となったハリファックス子爵[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|エドワード・ウッド]]だった<ref>Judd, p. 180</ref>。チャーチルが、初代[[ビーヴァーブルック男爵]][[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|マックス・エイトケン]]を[[航空機生産大臣]] ({{Lang-en|Minister of Aircraft Production}}) に任じたときには、ジョージ6世は当初失望していたが、ジョージ6世とチャーチルは徐々に「イギリス近現代史上、もっとも個人的な友情で結ばれた国王と首相」といわれるほどの絆を結んでいった<ref>Rhodes James, p. 195</ref>。1940年9月からの半年間、2人は毎週水曜日に4時間を共に過ごし、昼食をとりながら、戦争について秘密裏に腹蔵なく語り合った<ref>Rhodes James, pp. 202–210</ref>。
 
その後[[1941年]]12月には[[日本軍]]による「[[マレー作戦]]」を受けて[[日本]]との間に開戦し、瞬く間に[[香港]]や[[マレー半島]]、ビルマなどアジアの主要な植民地を失い、大西洋と地中海が戦場となったほか[[インド洋]]の制海権を押さえられ、[[オーストラリア]]との交通が遮断されてしまう。そのような状況にありながら、第二次世界大戦の間中、ジョージ6世とエリザベスは爆撃を受けた場所、軍需工場などイギリスとその影響下にある各地を訪問し、国民の士気を鼓舞し続けた。さらにジョージ6世は、イギリス本国を離れて外国へ遠征している部隊も慰問した。1939年12月にフランス、1943年6月に北アフリカと[[マルタ]]、1944年6月に[[ノルマンディー]]、1944年7月に南イタリア、1944年10月に[[ネーデルラント]]地域を、それぞれ訪れている<ref>Judd, pp. 176, 201–203, 207–208</ref>。1942年8月には弟のケント公ジョージが、軍務中に死去した<ref>Judd, p. 187; Weir, p. 324</ref>。
 
国王夫妻は国民から高い敬意を受け、その不屈の姿勢とともに、国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在となっていった<ref>Judd, p. 170</ref>。1945年5月にドイツが降伏した[[ヨーロッパ戦勝記念日]]のお祭り騒ぎの中、バッキンガム宮殿前に集った国民が「王よ、お姿を! (We want the King!)」と叫んだ。ミュンヘン協定を締結したときのチェンバレンのときと同じく、ジョージ6世国王とエリザベス王妃はチャーチル首相とともに宮殿のバルコニーに姿を見せ、国民からの喝采を受けた<ref>Judd, p. 210</ref>。1946年1月にロンドンで開催された第1回[[国際連合]]会議で、ジョージ6世は公式演説を行い、「男女の別、国の大小に関わらず、信念はみな平等である」と断言している<ref>Townsend, p. 173</ref>。
 
=== イギリス連邦の統治 ===
[[ファイル:Attlee with GeorgeVI HU 59486.jpg|thumb|right|ジョージ6世(右)と、イギリス首相[[クレメント・アトリー]](1945年7月)]]
第二次世界大戦において戦勝国となったものの、本国がドイツ軍の空襲を受けるなど戦禍にさらされ、アジアでも多くの植民地を日本軍に蹂躙され国力を削がれた[[イギリス帝国|大英帝国]]の崩壊は加速していった。1931年に発布されたウェストミンスター憲章で、すでに各イギリス自治領がそれぞれ主権をめられていた。それまでの大英帝国から、[[イギリス連邦]]として知られる各独立国の自由意志による同盟への移行は、第二次世界大戦後、とくに労働党党首[[クレメント・アトリー]]が首相を務めた時代(1945年から1951年)に勢いを増していった<ref>Townsend, p. 176</ref>。
 
宗主国として世界各地の植民地に君臨する国力も威厳も失ったイギリスは急速に求心力を失い、1947年には[[イギリス領インド帝国]]が、[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]の二国に[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]した<ref>Townsend, pp. 229–232, 247–265</ref>。これにより、ジョージ6世は「[[インド皇帝]]」の称号を失い、「インド王」、「パキスタン王」となっている。1950年にはインドがイギリス連邦に留まったまま共和制へと移行したことから、ジョージ6世は「インド王」の称号も失ったが、「パキスタン王」の称号は生涯保持し続け、インドは「英連邦君主 ([[:en:Head of the Commonwealth]])」という新たな称号を承認した。その他、1948年1月に[[ミャンマー|ビルマ]]、1948年5月に[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]、1949年に[[アイルランド]]が、イギリス連邦から脱退している<ref>Townsend, pp. 267–270</ref>。
141 ⟶ 142行目:
1947年に国王一家は、連邦構成国である南アフリカを公式訪問した<ref>Townsend, pp. 221–223</ref>。翌年に総選挙を控えていた[[南アフリカ連邦]]首相の[[ヤン・スマッツ]]は、この国王一家訪問を政治的に利用することを考えていた<ref>Judd, p. 223</ref>。
 
しかしながらジョージ6世は、[[人種差別]]的政策を行う南アフリカ連邦政府から[[白人]]とのみ握手するようめられたことに愕然とし<ref>Rhodes James, p. 295</ref>、連邦政府から自身につけられた護衛官たちを、[[ナチス・ドイツ]][[秘密警察]]だった「[[ゲシュタポ]]」と称して非難している<ref>Rhodes James, p. 294; Shawcross, p. 618</ref>。また、南アフリカ連邦政府から、[[黒人]]の叙勲者に対して直接[[勲章]]をつけ授与することも拒否され、「あいつら(白人の政府関係者)を全員射殺したい」と漏らした。
 
なおスマッツは[[1948年]]の総選挙 ([[:en:South African general election, 1948]]) に敗れ、新たな首相[[ダニエル・フランソワ・マラン]]は人種間差別政策[[アパルトヘイト]]を確立した。このことにより南アフリカは[[1961年]]にイギリス連邦から追放されている。
 
=== 晩年 ===
[[ファイル:George VI Farthing.jpg|thumb|200px|left|1951年に発行された、ジョージ6世の肖像が刻まれたファージング硬貨。肖像の周りの"GEORGIVS VI [[:w:Dei Gratia Regina|D:GR]]:[[ブリタンニア|BR]]:OMN:[[:w:Fidei defensor|FIDEI DEF]]:"は[[ラテン語]]で「ジョージ6世、神の恩寵ある全ブリタンニアの王にして[[信仰の擁護者]]」と刻まれている。]]
戦時中の心労がジョージ6世の健康を損ねたといわれている<ref>{{citation|publisher=Official website of the British monarchy|title=King George VI|url=http://www.royal.gov.uk/HistoryoftheMonarchy/KingsandQueensoftheUnitedKingdom/TheHouseofWindsor/GeorgeVI.aspx|accessdate=22 April 2009}}</ref><ref>Judd, p. 225; Townsend, p. 174</ref> 。ヘビースモーカーだったことも体調悪化に拍車をかけ<ref>Judd, p. 240</ref>、肺がんと動脈硬化などの慢性疾患を複数併発した。体調不良で公務に時間を取れないジョージ6世に代わって、[[推定相続人|推定王位継承者]]である長女のエリザベス王女が、さらに多くの公務をこなすようになっていった。
 
右足の動脈閉塞と、それに伴う手術を1949年3月に受けたために、予定されていたジョージ6世の[[オーストラリア]][[ニュージーランド]]訪問は延期されている<ref>Rhodes James, pp. 314–317</ref>。延期されたこの訪問は、エリザベス王女とその夫エディンバラ公[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]が、ジョージ6世夫妻の代理として訪問することで再調整された。1951年5月に開催された英国博覧会 ([[:en:Festival of Britain]]) の開幕式には出席できるまでに回復していたジョージ6世だったが、左肺に悪性腫瘍が発見され、9月23日に摘出手術を受けている<ref>Bradford, p. 454; Rhodes James, p. 330</ref>。12月の議会開会宣言 ([[:en:State Opening of Parliament]]) の場で、ジョージ6世が行うはずだった[[国王演説]]は、[[大法官]]が兼任する[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員議長のギャビン・サイモンズ ([[:en:Gavin Simonds, 1st Viscount Simonds]]) が代読した<ref>Rhodes James, p. 331</ref>。また、毎年の恒例行事となっていた[[クリスマス]]の全国民向け放送を行った際も、話の途切れた部分をテープから切り取って、言葉が一貫して繋がるように編集しなければならない程だった<ref>Rhodes James, p. 334</ref>。
 
1952年1月31日に、周囲の反対を押し切って、ジョージ6世は、[[ロンドン・ヒースロー空港]]まで足を運び、[[ケニア]]植民地経由で[[オーストラリア]]へと旅立つエリザベス王女を見送っている。そして2月6日の朝に、サンドリンガム・ハウスのベッドで息を引き取ったジョージ6世が発見された。死因は就寝中の[[冠動脈血栓症]]で、ジョージ6世はこのとき56歳だった<ref>Judd, pp. 247–248</ref>。ジョージ6世の突然の死を知ったエリザベス王女は、滞在先のケニアから、女王エリザベス2世として即位するためにイギリスへと舞い戻っている。
 
2月9日から2日間、ジョージ6世の棺はサンドリンガムの聖メアリ・マグダレーン教会に安置された。その後、亡きジョージ6世と国民が別れを告げるために ([[:en:lying in state]]) [[ウェストミンスター宮殿]]のホールに棺が運ばれている<ref>{{citation|title=Repose at Sandringham|work=Life|url=http://books.google.com/books?id=dFQEAAAAMBAJ&pg=PA38|accessdate=26 December 2011|date=18 February 1952|publisher=Time Inc|page=38|id={{ISSN|0024-3019}}}}</ref>。ジョージ6世の国葬はウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で、2月15日に行われた<ref>Bradford, p. 462</ref>。礼拝堂地下にある歴代王族の墓所に葬られたが、後にジョージ6世祈念礼拝堂が建設され、1969年3月26日に同礼拝堂に改葬された<ref>{{citation|url=http://www.stgeorges-windsor.org/about-st-georges/royal-connection/burial/burials-in-the-chapel-since-1805.html|title=Royal Burials in the Chapel since 1805|publisher=Dean & Canons of Windsor|accessdate=15 February 2010}}</ref>。
 
未亡人となった王妃[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス王太后]]は「国母」として国民に敬愛を受けつつ長命を保ったが、次女[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]が[[2002年]][[2月9日]]に死去すると、後を追うように同年[[3月30日]]に死去した。両者ともジョージ6世の墓所の隣に埋葬された。
 
== 後世への影響 ==
161 ⟶ 162行目:
労働党の議員ジョージ・ハーディ ([[:en:George Hardie (Labour politician)]]) は、1936年のエドワード8世の王位放棄について「共和主義に大きな恩恵を与えた出来事で、50年かけて宣伝する以上の効果をもたらした」としている<ref>Hardie in the British House of Commons, 11 December 1936, quoted in Rhodes James, p. 115</ref>。ジョージ6世は兄エドワードに、国王退位の影響によって「イギリス王座が揺らいでいる」とし、不本意ながら王座を「もと通りに強固なものにすること」が自身の務めだという書簡を書いた<ref>Letter from George VI to the Duke of Windsor, quoted in Rhodes James, p. 127</ref>。
 
このようにジョージ6世は、[[イギリス王室]]に対する国民の信頼が極めて低いときに、王位に就かねばならなかった。さらにその治世中、国民は戦争の困窮に耐え偲ばねばならず、その後大英帝国の威光はなくなっていった。しかしながら、ジョージ6世は誠実な家庭人で、かつ責任感の高い国王であり、個人的な勇気を示すことによって、イギリス国王の信頼感を取り戻すことに成功した<ref>{{Citation|last=Ashley|first=Mike|year=1998|title=British Monarchs|publisher=Robinson|location=London|isbn=1-84119-096-9|pages=703–704}}</ref><ref>Judd, pp. 248–249</ref>。
 
「[[ジョージ・クロス]]」と「ジョージ・メダル ([[:en:George Medal]])」 は、どちらも第二次世界大戦中にジョージ6世が考案し、一般市民の勇敢な行為を表彰するために制定された勲章である<ref>Judd, p. 186; Rhodes James, p. 216</ref>。1943年には「[[マルタ島]]すべて」を対象にジョージ・クロスを授与した<ref>Townsend, p. 137</ref>。また、死後の1960年には、フランス政府から、チャーチルとともにジョージ6世にリベラシオン勲章 ([[:en:Ordre de la Libération]]) が追贈されている<ref>{{Citation|url=http://www.ordredelaliberation.fr/fr_doc/liste_compagnons.pdf|publisher=Ordre de la Libération|accessdate=19 September 2009|format=PDF|title=List of Companions}}</ref>。
168 ⟶ 169行目:
 
== 映画 ==
2010年の[[イギリス映画]]『[[英国王のスピーチ]]』では、ジョージ6世が吃音症を克服するさまが描かれている。ジョージ6世を演じた[[コリン・ファース]]が[[アカデミー主演男優賞]]を受賞したほか、[[アカデミー作品賞]]など4部門でアカデミー賞を獲得した<ref>[http://www.oscars.org/awards/academyawards/83/nominees.html "Winners and Nominees for the 83rd Academy Awards"]. www.oscars.org. 2011-08-04. Retrieved 4 August 2011 (Archived by WebCite® at http://www.webcitation.org/60ghsJjST)</ref>。
 
2012年のイギリス映画『[[私が愛した大統領]]』では[[サミュエル・ウェスト]]がジョージ6世役を演じている。
 
2017年のイギリス映画『[[チャーチル ノルマンディーの決断]]』では[[ジェームズ・ピュアフォイ]]がジョージ6世役を演じている。
 
2017年のイギリス映画『[[ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男]]』では[[ベン・メンデルソーン]]がジョージ6世役を演じている。
 
== テレビドラマ ==
2016年の[[ネットフリックス|Netflix]]配信テレビドラマシリーズ『[[ザ・クラウン (ネットフリックス)|ザ・クラウン]]』では[[ジャレッド・ハリス]]がジョージ6世役を演じている。
 
== フリーメイソン ==
201 ⟶ 207行目:
*:皇帝陛下(His Imperial Majesty)
 
ジョージ6世は、イギリス国王の曾孫、孫、息子として、その生涯を通じて多くの称号で呼ばれた。即位後は、単に「国王(the King)」ないし「陛下(his majesty)」と呼ばれることが通例だった。また、[[イギリスの君主|イギリス国王]]としてのジョージ6世は、自動的に[[カナダ軍|カナダ全軍]][[イギリス軍|イギリス全軍]]の(名目上「最高司令官」の地位にも就いている<ref>{{Citation |first=Parliament of the United Kingdom| author-link=Parliament of the United Kingdom| title=Constitution Act 1867; III.15| year=1867| publisher=Department of Justice, Canada| url=http://laws-lois.justice.gc.ca/eng/Const/page-2.html#s_9|accessdate=22 April 2009}}</ref><ref>{{citation| url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/ArmedForces/QueenandtheArmedForces.aspx |title=The Queen and the Armed Forces |publisher=Official website of the British monarchy |accessdate=22 April 2009}}</ref>。
 
=== 紋章 ===
225 ⟶ 231行目:
国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。
 
*[[ファイル:Flag of Afghanistan (1931–1973).svg|border|25x20px]] [[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]]:太陽勲章(Order of the Sun)
*[[{{flag|アメリカ合衆国]]}}:第二次世界大戦遠征記念章(Campaign Medal)
*[[ファイル:Flag of Iraq (1921–1959).svg|border|25x20px]] [[イラク王国]]:{{仮リンク|二大河勲章|en|Order of Al Rafidain}}(1933年)、ハシム王家勲章(Order of the Hashemites)(1943年)
*[[ファイル:Flag of Egypt (1922–1958).svg|border|25x20px]] [[エジプト王国]]:ムハンマド・アリー勲章(Order of Mohammed Ali)(1927年)
*[[ファイル:Flag of Ethiopia (1897-1936; 1941-1974).svg|border|25x20px]] [[エチオピア帝国]]:[[エチオピアの星勲章]]([[1902年]])、[[ソロモン勲章]]
*[[{{flag|オランダ]]}}:{{仮リンク|ウィレム軍事勲章|nl|Militaire Willems-Orde}}、{{仮リンク|ネーデルラント獅子勲章|nl|Orde van de Nederlandse Leeuw}}
*[[ファイル:Flag of Greece (1822-1978).svg|border|25x20px]] [[ギリシャ王国]]:{{仮リンク|贖主勲章|el|Τάγμα του Σωτήρος}}([[1936年]])、{{仮リンク|ゲオルギオス1世勲章|el|Τάγμα του Γεωργίου Α΄}}(1936年)、{{仮リンク|聖ゲオルギオスおよび聖コンスタンティノス勲章|en|Order of Saints George and Constantine}}
*{{flagicon|SMR}} [[サンマリノ|サン・マリノ共和国]]:{{仮リンク|サン・マリノ勲章|it|Ordine equestre per il merito civile e militare}}
*[[{{flag|スウェーデン]]}}:{{仮リンク|熾天使勲章|sv|Serafimerorden}}([[1937年]])
*[[{{flag|タイ王国]]}}:[[白象勲章]]・[[大チャクリー勲章]]([[1938年]])
*[[{{flag|デンマーク]]}}:[[象勲章]]、[[ダンネブロ勲章]]
*[[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|25x20px]] [[日本]]}:[[大勲位菊花大綬章]]([[1937年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1937年]])
*[[{{flag|ネパール]]}}:{{仮リンク|ラヤーニー勲章|en|Order of Ojaswi Rajanya}}
*[[{{flag|ノルウェー]]}}:[[聖オーラヴ勲章]]
*[[{{flag|フランス]]}}:[[レジオンドヌール勲章]]
*{{flagicon|BGR}} [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]:{{仮リンク|聖キリルおよび聖メソディウス勲章|bg|Св. св. Кирил и Методий (орден)}}
*[[{{flag|ベルギー]]}}:{{仮リンク|レオポルド勲章|nl|Leopoldsorde (België)|fr|Ordre de Léopold}}
*[[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|border|25x20px]] [[パフラヴィー朝|ペルシャ帝国]]:{{仮リンク|ライオンと太陽勲章|en|Order of the Lion and the Sun}}、{{仮リンク|パフラヴィー勲章|en|Order of Pahlavi}}
*[[{{flag|ポルトガル]]}}:キリスト・聖ベネディクト・聖ディエーゴ三重勲章(1939年)
*{{flagicon|ROU}} [[ルーマニア王国]]:[[カロル1世勲章]]
*{{flagicon|RUS}} [[ロシア帝国]]:{{仮リンク|聖ウラジーミル勲章|ru|Орден Святого Владимира}}([[1915年]])<ref>[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.297</ref>
 
== 子女 ==
251 ⟶ 257行目:
!名前!!生年月日!!没年月日!!配偶者!!子女
|-
|第1子(長女)<br>[[エリザベス2世|エリザベス]]<br/>--後に'''[[エリザベス2世]]'''として<br>[[イギリスの君主|イギリス女王]]に即位<br/>||[[1926年]][[4月21日]]|| ||[[フィリップ (エディンバラ公)|ギリシャおよびデンマーク王子フィリップ]]<br/>--後に[[エジンバラ公]]||[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]<br/>[[アン (イギリス王女)|アン]]<br/>[[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]]<br/>[[エドワード (ウェセックス伯爵)|エドワード]]
|-
|第2子(次女)<br>[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット]]||[[1930年]][[8月21日]]||[[2002年]][[2月9日]]||[[アンソニー・アームストロング=ジョーンズ (初代スノードン伯爵)|アントニー・アームストロング=ジョーンズ]]<br />後に[[スノードン伯爵]]||[[デイヴィッド・アームストロング=ジョーンズ]]<br/>[[サラ・チャット]]
|}
 
344 ⟶ 350行目:
{{Wikisource author|George VI of the United Kingdom}}
*[http://www.life.com/image/first/in-gallery/54991/george-vi-the-reluctant-king#index/0 George VI: The Reluctant King] – slideshow by ''Life magazine''
*{{youTube|p1TubkzxPFY|Footage of King George VI stammering in a 1938 speech}}
*{{youTube|m-vlrXBqGw8|Soundtrack of King George VI Coronation speech, 1937}}
*{{youTube|p1TubkzxPFY|Footage of King George VI stammering in a 1938 speech}}
*{{youTube|zHnEGqEoMsM|The Real Kings Speech King George VI September 3rd 1939}}
*{{youTube|v4l3aaL8Je4|King George VI's Victory Speech: World War II (1945)}}
*[https://trove.nla.gov.au/newspaper/article/18252569 1952年2月9日 - ジョージ6世国王崩御に際してのウィンストン・チャーチル首相スピーチ全文(英語版)] - [[オーストラリア国立図書館]]
**{{youTube|4JbS79GYYy0|Winston Churchill Speech (King George VI Death)}}
* {{UK National Archives ID}}
* {{Internet Archive author|name=George VI of the United Kingdom}}