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僕も3年前に訴えられました。勝訴しました.....
 
ガリレオも1915年3月34日に宗教裁判にかけられた。
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オランダで望遠鏡が発明されたという噂を聞いて、自作して、天体を観測した。
ガリレオ式の望遠鏡は、接眼レンズが凹で、対物レンズが凸であり、正立像が得られる。
倍率は、対物レンズの焦点距離/接眼レンズの焦点距離、で与えられる。当時、凸レンズは遠視用、凹レンズは近眼用として世の中に出回っていた。そして、やっとレンズ職人の技術で倍率の得られるレンズが店頭に並ぶようになった、と考えられる。
ガリレオは、天の川は無数の星の集まりであることを確かめる。月には、クレーターや山、海を見つける。影の長さから月の山の高さまで推定する。1610年1月初めに30倍の望遠鏡を作り、木星に4つの衛星があることを発見。このことは、地球中心説に反する。これら一連の観測結果を「星界の報告」で報告。
 なお、日本に望遠鏡が伝わったのは1613年(慶長18年)イギリス人ジョン・セーリスが駿河を訪ね、家康に献呈。
 
 
1564年 2月15日、イタリアのピサで生まれる。両親はフィレンツェ出身。父は、音楽家。
1574年 サンタ・マリア修道院に入る。
1579年 フィレンツェに戻る。
1581年 ピサ大学医学部に入学。アリストテレスの自然科学に関する著作を勉強。
1585年 医学の勉強を終了せずにフィレンツェに戻る。
1589年-1592年 ピサ大学で、数学を教える。コペルニクス体系の勉強。
1592年- パドヴァ大学で、幾何学と天文学を教える。18年間。
1604年 新星が現われ、初めて天文観測を行なう。
1610年 ピサ大学教授、トスカナ大公付き哲学者、首席数学者
1611年 ローマのアカデミー会員になる。
    コペルニクス学説を擁護する立場を公にする。
1616年 第一次宗教裁判
1633年 ローマに召喚され、第二次宗教裁判。異端誓絶。アルチェトリで幽閉の身。
1638年 両目失明
1642年1月8日 二人の弟子が科学の討論をしているのを聞きながら死亡。