「妙円寺 (日置市)」の版間の差分

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[[元中]]7年([[1390年]])、当時この地の支配者であった[[伊集院忠国]]の11男である石屋真梁によって、[[長門国|長州]]の[[守護大名]]であった[[大内義弘]]の息女の供養の為に<ref >{{Cite web|url=http://myoenji.jp/yurai.html|title=由来|accessdate=2018-09-02|website=妙円寺}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|建立については、[[島津元久]]が[[1387年]](或いは1390年)に石屋を開山に招き、[[伊集院城]]の北東の地に妙円寺を創建したという説もある<ref>『島津元久譜』</ref><ref>『伊集院由緒記』</ref>。}}建立された。ちなみに石屋は[[応永]]元年([[1394年]])に島津元久の命で[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]の開山となった人物でもある。石屋の兄・南仲景周は[[広済寺 (日置市)|広済寺]]の開山となっており、若い頃の石屋は小僧として兄の下、広済寺で勉学や修行に励んでいる。妙円寺は福昌寺の兄寺にあたる。歴代[[島津氏]]当主の尊崇を受けてきたが、島津義弘は特にこの寺に対する帰依が厚く、自分の菩提寺に妙円寺を指定した島津義弘は、生前に京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ<ref group="注釈">島津義弘も出家して惟新斎と名乗っているため、徳重神社に祭られている義弘の[[神体]]は僧体である。</ref>、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示して妙円寺に500[[石高|石]]を与え<ref name="Matsumoto_222223">{{Harvnb|松元町|1986|pp=222, 223}}。</ref>、妙円寺にとってこの500石が最盛期の[[寺領]]となり<ref>{{Cite web|url=http://myoenji.jp/myoenji_thutaeyukumono.html|title=妙円寺が伝えゆくもの|accessdate=2018-09-02|website=妙円寺}}</ref>、島津義弘とその妻の墓所となったために[[薩摩藩]]の中でも有数の禅寺となった。「[[徳重神社#妙円寺参り|妙円寺詣り]]」の妙円寺とは本来この寺のことを指す。
 
その後、訳あって妙円寺が既に廃寺となりかけていた[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])には、福昌寺6代住職・{{読み仮名|愚丘妙智|ぐきゅうみょうち}}が来て、必要なものを妙円寺へ移し、仏像や仏堂を飾り元通りにして、今まで廃れていたものを全て復興しており、愚丘は妙円寺の[[中興]]だと『薩藩名勝志』に書かれている<ref name="Chorography_173">{{Harvnb|鹿児島県立図書館|2002|p=173}}。</ref>。[[寛永]]2年([[1625年]])正月や、[[寛延]]3年([[1750年]])6月14日には火事が起きており<ref name="Chorography_173" />、[[天保]]6年([[1835年]])には、妙円寺が全焼<ref name="ScenicSpot_45">{{Harvnb|薩摩藩|1843|p=45}}。</ref><ref name="Matsumoto_222223" />。神体である島津義弘の木像は一時、雪窓院<ref group="注釈">島津義弘の母である[[島津貴久]]夫人の菩提寺。伊集院町本通りの西にある城山トンネル入口付近にあったが、廃仏毀釈により廃寺。</ref>に安置され、後に再興された妙円寺へ再び戻された<ref name="Matsumoto_222223" />。その際の行列は、当時の大名行列を小規模にした形式を取っていた<ref name="Matsumoto_222223" />。ちなみに、伊集院町文化財に指定されている松崎勘助貞範<ref group="注釈">幕末の伊集院郷組頭。[[越後国|越後]]小出島で戦死。</ref>の日記には、城下の武士が[[鹿児島城]]の城主へ、元旦拝賀に新年言葉を述べるのと同じ作法で、伊集院郷士で許可された者が神体である義弘の木像に拝賀し、新年を祝う言葉を述べていたことが記されている<ref name="Matsumoto_222223" />。天保14年([[1843年]])にまとめられた『[[三国名勝図会]]』には、妙円寺の寺領は375石と記されている<ref name="ScenicSpot_45" />。また、『三国名勝図会』や『薩藩名勝志』には、寺の敷地内に[[鎮守神|鎮守社]]という神社も描かれている<ref>{{Harvnb|薩摩藩|1843|p=44}}。</ref><ref>{{Harvnb|鹿児島県立図書館|2002|p=172}}。</ref>。
 
[[明治]]2年([[1869年]])には、[[神仏分離]]などに端を発した[[廃仏毀釈]]により破壊され、当時の[[住職]]は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年には早くも地元の支援者により、かつての寺地の近隣に再興され、[[徳重神社]]の所有となった宝物の返還を求めたが、達せられないまま現在に至っている。また、明治2年11月までに薩摩藩内1066カ所の寺が廃絶し、2964人いた僧侶も明治7年([[1874年]])までには[[還俗]]させられ、それから数年間、寺院は全て無く、僧侶も全ていない状態になったと鹿児島県史<ref>{{cite wikisource|鹿児島県史|鹿児島県|ja|和書=yes|nobullet=yes}}</ref>にも記されている状況下<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bakumatu/haibutu.html|title=廃仏毀釈|publisher=鹿児島県|date=2012-06-27|accessdate=2018-09-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150115/276274/|title=寺と僧侶が「完全消滅」した 数字でたどる宗教の系譜(下)|website=日経ビジネスオンライン|publisher=[[日経BP]]|date=2015-01-21|accessdate=2018-09-11}}</ref>において、島津氏における6代から28代までの当主の墓が並び最盛期には約1500人の僧侶がいた南九州屈指の寺だった福昌寺をはじめ、[[日新寺]]や薩摩藩屈指の有力寺院だった[[一乗院 (南さつま市)|一乗院]]など、島津氏に深く関わりがある数々の寺でさえも、廃仏毀釈によりその多くは再興に到らず廃寺のままとなっている中、再興にまで至った恵まれた幸運な寺でもある。復興後の妙円寺は600坪程に縮小されたが、島津義弘の位牌に加え、境内には昭和11年に公爵で島津家第30代当主・[[島津忠重]]の寄贈した石屋眞梁の碑があり、碑銘は陸軍大将・[[町田経宇]]によって書かれている。