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国道266号 (会話 | 投稿記録)
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{{三国志の人物
[[ファイル:Han Sui Qing Dynasty portrait.jpg|thumb|right|250px|韓遂]]
|名前 = 何進
'''韓 遂'''(かん すい、? - [[215年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''文約'''。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「[[曹操|武帝]]紀」・[[蜀漢|蜀]]志「[[馬超]]伝」・『[[後漢書]]』「[[董卓]]伝」等に記録がある。
[[ファイル:|画像 = Han Sui Qing Dynasty portrait.jpg|thumb|right|250px|韓遂]]
 
|サイズ = 200px
後漢末期における[[涼州]]・[[関中]]軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。元の名を'''韓約'''という。
|説明 = [[清]]代の書物に描かれた韓遂
|王朝 = [[後漢]]
|称号・役職 = 征西将軍
|出生 = 不詳
|出身地 = [[涼州]][[金城郡]]
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]20年([[215年]])
|死没地 =
|ピン音 = Hán Suí
|字 = 文約
|諡号 =
|廟号 =
|別名 = 韓約
|主君 = [[何進]]→独立勢力→[[馬騰]]→[[曹操]]→独立勢力
|特記事項 =
}}
'''韓 遂'''(かん すい、? - [[215年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''文約'''。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[ (三国)|魏]]志「[[曹操|武帝]]紀」・[[漢|蜀]]志「[[馬超]]伝」・『[[後漢書]]』「[[董卓]]伝」等に記録がある。後漢末期における[[涼州]]・[[関中]]軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。元の名を'''韓約'''という
 
== 生涯 ==
[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[辺章|辺允]]と共に西方で高く評価された(「武帝紀」が引く『[[魏略|典略]]』)。計吏として[[洛陽]]に赴いた時、[[何進]]に目をかけられた。この時、何進に対し[[宦官]]を誅滅するように進言したが、何進が従わなかったため、郷里に引き揚げたという(「武帝紀」が引く『典略』)。
 
[[184年]]、涼州で[[羌]]族や枹罕・河関の盗賊、[[宋建]]・王国らが反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立した。彼らは[[蘭州市|金城郡]]まで来ると降参した振りをして、辺允・韓約ら数十人を人質に取り、護羌校尉の伶徴・金城[[太守]]の陳懿を殺害した。しかし彼らは辺允・韓約を釈放し、擁立した上で軍政を委ねたという。このため[[隴西郡]]では辺允・韓約が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両人に対して懸賞首をかける事態となった。この時に辺允は[[辺章]]という名に改め、韓約も名を韓遂と改めたという(後漢書「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」・後漢書「董卓伝」が引く『献帝春秋』)。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、宋揚・北宮玉らが反乱を起こし、辺章・韓遂を擁立したとある。
 
韓遂らは州郡を焼き払い、[[185年]]3月には[[三輔]]地方に侵入した。朝廷は[[皇甫嵩]]・[[董卓]]を討伐に派遣したが、皇甫嵩が成果を挙げられなかったため罷免し、8月に改めて[[張温 (後漢)|張温]]に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。まもなく韓遂らも美陽に着陣したという。韓遂らは張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月に董卓らに大敗し楡中へ敗走した(後漢書「董卓伝」)。翌年に張温が召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、軍勢を擁して隴西を包囲した。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、[[辺章]]が病死したため、韓遂が盟主になったとある。
 
[[187年]]、涼州[[刺史]]の耿鄙が佞吏を信用したため[[テイ (民族)|氐]]や羌が反乱を起こした。この時、韓遂がこれに続いて反乱を起こしたので、耿鄙はこれらを鎮圧しようとした。耿鄙が[[天水郡|漢陽]]太守の傅燮の諫めを聞き入れず、[[狄道県|狄道]]まで赴いたところで部下の寝返りによって殺されると、韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、傅燮を殺害した(「霊帝紀」・後漢書「傅燮伝」)。また耿鄙の司馬であった[[馬騰]]も、叛逆して韓遂らと合流し、王国を盟主に推戴して三輔地方に侵攻した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。翌年、韓遂らは陳倉城を包囲したが、皇甫嵩・董卓に敗れたので、盟主の王国を追放した。王国は混乱の渦中で死亡した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。その後、韓遂らが権力争いによる殺し合いを始めると、彼らの軍勢も四散してしまったという(後漢書「董卓伝」)。
 
[[190年]]、朝廷の実権を握った董卓が[[長安]]への遷都を諮った時、董卓は遷都に反対する[[楊彪]]らに向かって、韓遂らから遷都させるようにとの手紙が来ていると言及している。董卓死後、[[李カク (後漢)|李傕]]・[[郭シ|郭汜]]が呂布を追い出し自分たちの政権を成立させると、韓遂・馬騰は李傕らに恭順の意を見せ、長安に赴いた(魏志「董卓伝」)。韓遂は鎮西将軍に任命され涼州に帰還し、馬騰も征西将軍に任命され[[眉県|]]に駐屯した(魏志「董卓伝」・蜀志「馬超伝」)。[[194年]]、馬騰は心変わりし、朝廷の反李傕勢力や[[益州]]の[[劉焉]]と共に長安を攻めた。韓遂はそれを聞いて馬騰と李傕らを和解させようとしたが、結局和解させることに失敗したため、馬騰と合流することになった。しかし劉焉らとの襲撃の計画が外部に洩れてしまったため、韓遂・馬騰は[[樊稠]]・郭汜に大敗した。この時、韓遂は陳倉まで逃走したところで樊稠に追い付かれたが、旧知であったため見逃してもらったという(後漢書「董卓伝」・魏志「董卓伝」が引く『[[九州春秋]]』)。その後、涼州に戻った韓遂は馬騰と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶなど当初は極めて親しくしていたという(「馬超伝」が引く『典略』)。しかしその後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに殺し合う有様となった(魏志「[[鍾ヨウ|鍾繇]]伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。その際、韓遂が馬騰の妻子を殺したため、和睦は一層困難なものとなった。
 
[[197年]]、[[曹操]]は[[袁紹]]との戦いを控えていたため、関中の混乱を収めようと、鍾繇を派遣し関中の総指揮を委ねた(「鍾繇伝」)。鍾繇は長安に拠って[[張既]]を使者として派遣し、両者の対立を収めようとした。張既や涼州牧の韋端の仲介により、韓遂は馬騰との争いをやめることを誓い、その後は曹操の下に子を人質に送った上で、曹操の傘下となった(「鍾繇伝」・魏志「張既伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。[[209年]]、[[張猛 (武威太守)|張猛]]が[[雍州]]刺史の邯鄲商を殺害して反乱を起こすと、翌年に韓遂は上書して張猛を討伐し、自害に追い込んだ(魏志「[[ホウイク|龐淯]]伝」が引く『典略』)。