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=== 日本の上水道の歴史 ===
日本に上水道が導入されたきっかけとしてはコレラなどの伝染病への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての利潤という面も無視できなかった。東京水道の建設などは政府内務省と当時の野党である改進党の思惑に、条約改正を目論む外務省が関わる東京改造計画が絡んだ<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.177 ISBN 9784569616186</ref>。しかし日本では上水道の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.144 ISBN 9784569616186</ref>。
 
[[File:Sluiceway of Gosen Aqueduct 4 (masu).JPG|thumb|200px|right|日本現役最古の上水道である轟泉水道]]
[[File:HS Palmer.JPG|thumb|200px|right|ヘンリー・スペンサー・パーマー胸像(近代水道発祥の地、横浜市野毛山公園)]]
日本では、[[16世紀]]半ば、[[北条氏康]]の小田原支配時に[[早川 (神奈川県)|早川]]から水を引き、[[小田原城]]下に飲用として供した[[小田原早川上水]]が最古の水道と考えられている。[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている<ref>石井啓文『小田原の郷土史再発見』夢工房、[[2001年]]。</ref>。[[徳川家康]]もその一人で、[[1600年]]頃の[[江戸]]の都市建設のために[[井之頭池]]から引いた[[神田上水]]をはじめ、その後、[[玉川上水]]、[[千川上水]]などが江戸の町に引かれていった(後に[[青山上水|青山]]・[[本所上水|亀有]](本所)・[[三田用水|三田]]の3つを加えて[[江戸の六上水|「六上水」]]と称した)。現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。日本で最初に本格的都市型、埋設式上水道を敷設したのは、讃岐[[高松藩]]と言われている。藩主[[松平頼重]]は、[[玉川上水]]より9年早い[[寛永]]21年(1644年)、[[矢延平六]]に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。また、日本で現在も使われている最古の水道は、[[熊本県]][[宇土市]]に在る[[轟水源]]を水源とする[[轟泉自然公園#轟泉水道|轟泉水道]]で[[宇土藩]]初代藩主[[細川行孝]]が造り[[寛文]]3年([[1663年]])に完成したものである。始めは丸い[[土管]]の[[水道管]]で造られていたが、完成後100年程して6代目藩主[[細川興文]]のとき丈夫で長持ちする石の水道管に改修され今日に至る。
 
日本の近代的水道は、[[1887年]](明治20年)[[10月17日]]に、[[横浜市|横浜]]の[[外国人居留地]]で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の[[神奈川県]]知事[[沖守固]]は、英国陸軍工兵大佐の技師[[ヘンリー・S・パーマー]]を顧問に招き、資材も英国からの輸入に頼る形で、[[相模川]]の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。
[[1885年]](明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする[[水道条例]]が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた[[東京]]でも、[[1898年]](明治31年)には[[多摩川]]から[[淀橋浄水場]]を経由して、市内へと配水する設備が完成した。
 
日本に近代上水道が導入されたきっかけとしては[[コレラ]]などの[[伝染病]]への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての[[利潤]]という面も無視できなかった。東京府水道の建設などは当時の[[政府]]/[[内務省]]と当時の[[野党]]である[[改進党]]の思惑に、条約改正を目論む[[外務省]]が関わる東京改造計画が絡んだ<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.177 ISBN 9784569616186</ref>。
 
日本に上水道が導入されたきっかけとしてはコレラなどの伝染病への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての利潤という面も無視できなかった。東京水道の建設などは政府内務省と当時の野党である改進党の思惑に、条約改正を目論む外務省が関わる東京改造計画が絡んだ<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.177 ISBN 9784569616186</ref>。しかし日本では上水道の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.144 ISBN 9784569616186</ref>。
 
=== アメリカでの歴史 ===