「由理滴水」の版間の差分

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=== 儀山善来の曹源寺そして京都嵯峨広沢の要行院時代 ===
[[備前国]]の[[曹源寺 (岡山市)|曹源寺]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}[[儀山善来]]禅師として入山していた道誉を慕い、その門下につらなろうとして赴くが、すでに入門者が多数であることを理由に謝絶された。3日間懇請し続けてようやく入室を許されたのは、[[天保]]11年(1840年)のことであり滴水19歳(数え)の時であった。その後曹源寺で研鑽を積むこと10年近くして、28歳の時に儀山禅師の命により[[安芸国]]・[[佛通寺]]の瞶翁和尚の法化を助け留まること3年であった。<br>
[[嘉永]]5年(1852年)に京都に入り、京都[[嵯峨]][[広沢]]にある[[要行院]]の義堂和尚を訪問しそこに居住する<ref>{{Cite book|和書|author=鷲尾順敬|year=1992|title=増訂・日本仏家人名辞書|publisher=東京美術|pages=178p}}</ref>こと約十年。<ref name="dowling">『季刊 禅画報』第15号 発行 千眞工藝 1991年(由理滴水略年譜 p9)</ref>
 
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明治1年(1868年)5月に要行院義堂遷化し、8月には慈済院に転住し前版職をつかさどる。10月11日に初めて臨済録を提唱する。
明治4年([[1871年]])に臨済宗天龍寺派管長となり、12月には[[慈済院]]を[[高木龍淵]]に譲る。明治5年([[1872年]])に大教正となり、禅宗三派(臨済宗・[[曹洞宗]]・[[黄檗宗]])の管長に選任された<ref>{{Cite book|和書|author=鷲尾順敬|year=1992|title=増訂・日本仏家人名辞書|publisher=東京美術|pages=179p}}</ref>。
明治11年(1878年)3月には師である[[儀山善来]][[遷化]]。10月には[[選仏場]]を改めて[[仏殿]]兼[[法堂]]となす。<br>
明治12年([[1879年]])2月には法嗣である高木龍淵を伴って東京に赴き、天龍寺伽藍再建の勧進について政府に請願し許可を得る。明治16年(1883年)6月に新僧堂獅子窟を開単する。明治17年([[1884年]])に[[林丘寺]]住職を兼ね、この寺を再興する。<ref name="dowling">『季刊 禅画報』第15号 発行 千眞工藝 1991年(由理滴水略年譜 p9)</ref>
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明治25年([[1892年]])には天龍寺管長を龍淵に譲り、自分は林丘寺に隠栖する。明治30年([[1897年]])に再び天龍寺管長となり、再建工事を督促する。明治32年(1899年)に林丘寺住職を辞し、天龍寺再建に専念した。工事がほぼ竣工した直後に病にかかり、林丘寺雲母庵に寂す<ref>{{Cite book|和書|author=鷲尾順敬|year=1992|title=増訂・日本仏家人名辞書|publisher=東京美術|pages=179p}}</ref>。
 
== 一滴の水 ==
有名な「滴水」の字の因縁のお話。たまたま滴水が、手桶の僅かな余り水を何気なしに捨てたところ、儀山善来に一喝をくらった。『'''一滴の水をも活かせ、一滴の水を無駄にすることこそ殺生なり'''』と叱責をされたことが、その後の滴水の人生を大きく左右する。この叱声を肝に銘じ、後年道号を「滴水」とし師である儀山善来の教えを忘れなかった。そしてその思いが、遷化の時の次の遺偈になるのである。<br>