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プロ野球の指導者としての活躍は[[1986年]]の[[起亜タイガース|ヘテ・タイガース]]のコーチを皮切りに[[サンバンウル・レイダース]]、[[斗山ベアーズ]]の監督を経て[[2005年]]より[[ハンファ・イーグルス]]監督。
 
国際対決での韓国チームの指導者としての経歴は[[1991年]]の日韓親善プロ野球スーパーゲームでコーチとして参加、[[1995年]]の同大会では監督を歴任。3位決定戦で[[日本]]を破った[[2000年シドニーオリンピック]]ではコーチとして銅メダル獲得に貢献。[[2002年]]の[[2002年アジア競技大会|釜山アジア競技大会]]では監督として野球韓国代表を優勝に導く。
 
[[2004年アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]の出場権のかかった[[アジア野球選手権大会]][[2003年|2003]]では金寅植の代わりに、同年の韓国シリーズの優勝監督の[[金在博]](キム・ジェバク、元・[[LGツインズ]]監督、当時現代ユニコーンズ監督)がリーグ優勝監督として代表チームの監督を務め、初戦の台湾に4対5で敗れたことが響いてアテネ行きを逃してしまった。
 
2004年シーズンオフ、ハンファ・イーグルスの監督に就任したが、就任まもなく軽い脳梗塞を起こし、一時は去就が不透明だった時期もあった。だが、リハビリを進ませながら同時にスプリングキャンプから球団の指揮を執る精神力を見せて、下馬評のよくなかったチームをレギュラーシーズン4位を経てプレーオフまで導いた。翌年の[[2005年]]の準プレーオフでは、戦力的には見劣りしていた公式戦4位のハンファを率いて同3位の[[SKワイバーンズ]]に勝利している。
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温厚かつ謙虚な人物で、監督としては韓国では「信頼の野球」と呼ばれる采配が持ち味。しかし、その中で冷徹さも兼ねており一度見切った選手については温情采配などなく、いくらチームの貢献してきたベテランでもそのまま2軍で暮らさせることもある。
 
上述の2006年のWBC後のインタビューなどから[[野球日本代表|日本野球]]の底力を高く評価していると見られる。2009年のWBC開催前も「日本は[[2008年北京オリンピックにおける野球競技|北京五輪]]と全く違う選手を選出できることなど、レベルの強いチームをいくつも作れるが、我々はこの1チームしか作れない。」と答えた他「参加国の中で[[日本]]が一番強い。」とインタビューで答えた。
 
プロ野球の監督としては韓国シリーズを2度(1995年と[[2001年]])制覇し韓国プロ野球界では「[[名将]]」の一人に数えられる同監督だが、意外にも韓国プロ野球での成績は2009年公式戦終了時点で980勝1032敗45分で負け越している。