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{{Infobox Musician
| Name = 売国奴美輪 明宏
| Img = 無責任なメディアの駒Akihiro Miwa 美輪 明宏.jpg
| Img_capt =Nhkの悪魔
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = ゴミsinger
| Birth_name = <ruby><rb>オカマ丸山 臣吾</rb><rp>(</rp><rt>まるやま しんご</rt><rp>)</rp></ruby>(幼名)
| Alias = <ruby><rb>右翼を攻撃している丸山 明宏</rb><rp>(</rp><rt>日本解体まるやま あきひろ</rt><rp>)</rp></ruby>(本名及び旧芸名)
| Blood = [[ABO式血液型|A型]]
| School_background = [[国立音楽大学附属中学校・高等学校|国立音楽大学附属高校]]中退
| School_background =反日左翼の工作員の一人である| Born = {{生年月日と年齢|1935|5|15}}
| DiedBorn = {{まれた年月日きからキモい年齢|1935|5|15}}
| Died =
]][[]]
| Origin = {{JPN}}[[長崎県]][[長崎市]]
|
| Instrument = [[歌]]
昔からNhkに出没し日本を駄目にしている。
| Genre = [[シャンソン]]
| Occupation = [[シンガーソングライター]]、[[俳優]]、[[演出家]]、[[タレント]]
| Years_active = [[1952年]] -
| Label = [[キングレコード]]
| Production = オフィスミワ
| Associated_acts =
| Influences =
| URL = [http://www.o-miwa.co.jp/ o-miwa.co.jp]
| Notable_instruments =
}}
'''美輪 明宏'''(みわ あきひろ、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[5月15日]] - )は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[俳優]]、[[演出家]]、[[タレント]]。[[長崎県]][[長崎市]]出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|海星中学]]を経て[[国立音楽大学附属中学校・高等学校|国立音楽大学附属高校]]中退。愛称はマルさん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。
 
[[1971年]]までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。
めちゃくちゃにしている
 
== 略歴 ==
)は、国立音楽高等学校(現・[[国立音楽大学付属高等学校]])進学の為、上京する。家業の倒産をきっかけに高等学校を中退する。その後、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌唱する。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。
=== 長崎時代(1935年5月15日- 1951年) ===
[[1935年]]([[昭和10年]])[[5月15日]]、[[長崎県]][[長崎市]]において、作一、ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された[[遊郭]]街であり、「世界」という名前の[[カフェ]]を経営していた。[[1941年]]12月、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]との戦争体制に入った中で、美輪明宏の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。美輪明宏(10歳)は、[[長崎市への原子爆弾投下]]時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが{{refnest|group="注釈"|夏休みの宿題である絵を描いていて、その仕上がりを見ようと二、三歩後ろへ下がった途端、ぴかっと光った。偶然、後ろに下がったため、一命を取り留めたと語っている<ref>美輪明宏著『紫の履歴書』</ref>。}}、その後、近くの[[防空壕]]で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする<ref group="注釈">2005年のNHKの番組『[[あの日 昭和20年の記憶]]』に被爆者の一人として、インタビューイとして、出演した時には、1945年8月15日に、実家に戻ると水を求めてきた瀕死の被爆者らが押し寄せて、一家総出で水を与えたと証言している。とりわけ女性の被爆者に水を与えたところ、幼い自分を拝んでそのまま逝去する女性の姿に言及すると、涙ぐみ、「まさに地獄ですよ」と、語った。</ref><ref group="注釈">朝日新聞の『祈り ナガサキノート2』では「あの地獄のような光景が私の歌づくりの原点になっています」と語り(これは同書の帯に使用された)、赤子を抱えた母親の死体を見て、「無償の愛」(美輪の作品のテーマのひとつである)を知った。</ref>。
 
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、美輪明宏(10歳)は窓際で夏休みの宿題に[[御伽草子]]の「[[万寿姫]]」の絵を製作していた。自身が製作した絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、[[原子爆弾]]が長崎県に投下された。何千もの[[マグネシウム]]を焚いたような白い光だった。美輪明宏は、雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。しかし、直後には、世界が息を止めたような深い静寂に包まれるのを実感したと言う。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると[[空襲警報]]が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、[[勤労奉仕]]の[[女子挺身隊]]の宿舎は形を残していなかった<ref name="yomiuri">[[讀賣新聞]][[2015年]][[8月9日]]「戦後70年あの夏9」美輪明宏</ref>。
 
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
 
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた[[加賀美一郎]]の[[ボーイソプラノ]]に衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に[[西岡武夫]]がいた。
 
=== 歌手 丸山明宏 ===
[[エンリコ・カルーソー]]や[[ベニャミーノ・ジーリ]]の様な[[オペラ]]歌手、コンサート歌手を夢見て、[[1951年]]の春、美輪明宏(15歳)は、国立音楽高等学校(現・[[国立音楽大学付属高等学校]])進学の為、上京する。家業の倒産をきっかけに高等学校を中退する。その後、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌唱する。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。
翌[[1952年]]、美輪明宏(17歳)は、新宿駅で寝泊りしていたが、[[銀座]]7丁目にある[[シャンソン]]喫茶「[[銀巴里]]」([[1951年]]~[[1990年]])の美少年募集の張り紙広告をきっかけに、シャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わし、[[歌手]]デビューを飾る。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。
 
次第に人気を博し、[[三島由紀夫]]、[[吉行淳之介]]、[[野坂昭如]]、[[大江健三郎]]、[[中原淳一]]、[[遠藤周作]]、[[寺山修司]]、[[なかにし礼]]等、文化人の支持を得る。
 
[[1957年]]、シャンソン「[[メケ・メケ]]」を日本語で[[カバー]]し、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。[[元禄]]時代の[[小姓]]衣装を洋装に取り入れ、[[レース (手芸)|レース]]地のワイシャツ等を身に纏い[[ユニセックス]]ファッションと<ref group="注釈">「衣装革命」と称し、着飾ったが、この前衛的な美輪の活動も、まともだった保守的であった世間からは冷遇され、「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が、全国紙に掲載されたり、見知らぬ人から、石やビール瓶の蓋を投げ付けられた事もあった</ref>、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、[[マス・メディア]]から「[[神武天皇|神武]]以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する<ref name="bijo2">「第二章 天上界の麗人 美輪明宏」({{Harvnb|岡山|2016|pp=55-94}})</ref>。同じ、11957年製作の映画『[[暖流 (小説)|暖流]]』([[増村保造]]監督。[[大映]])に歌手として出演している。
 
「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。その間に、週刊誌にて、自身が[[同性愛者]]である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと宏への改名と体調の悪化 ===共に、吐血等[[原爆症]]に悩まされ始める事になる。
 
しかし、[[1963年]]には、[[中村八大]]らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。翌、[[1964年]]には、「[[ヨイトマケの唄]]」を初めてステージで披露する。[[1966年]]、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。
 
=== 俳優 丸山明宏 ===
[[1967年]]、寺山修司の[[演劇]]実験室・[[劇団]][[天井桟敷 (劇団)|天井桟敷]]旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。
 
[[1968年]]、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は大光社より)
 
[[江戸川乱歩]]原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『[[黒蜥蜴]]』に主演して以降も、『[[椿姫 (小説)|椿姫]]』、『[[マタ・ハリ]]』、[[ジャン・コクトー]]原作『[[双頭の鷲]]』といった舞台や『[[黒薔薇の館]]』、『[[雪之丞変化]]』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また、[[1970年]]からは、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]「[[ラジオ身の上相談]]」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。
 
=== 美輪明宏への改名と体調の悪化 ===
「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。その間に、週刊誌にて、自身が[[同性愛者]]である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと宏への改名と体調の悪化 ===
[[1971年]]、読経中に『美輪』の字が浮かび、神が与えてくれた名前だと思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だったため、丸山明宏から美輪明宏に改名<ref>美輪の著書『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004年)にて、記述</ref>。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里や[[渋谷ジァン・ジァン]]でのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『[[白呪]]』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また、男性役では、映画([[1977年]] [[井上ひさし]]原作『[[日本人のへそ]]』)やドラマ([[1976年]]『さくらの唄』)に出演している。
 
[[1978年]]『[[枯葉の寝床]]』(原作 [[森茉莉]])で舞台活動を再開するが、幼い頃より[[中華料理]]や[[イタリア料理]]に[[肉料理]]中心で食生活を過ごしてきたことによる影響が出始め、この頃より[[慢性気管支炎]]になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。しかし、その後も演劇では、[[1979年]]に[[エディット・ピアフ]]の生涯を描いた、自作自演となる『[[愛の讃歌]]』を初演したり、[[1980年]]のTVアニメ「[[メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行]]」では夜の女王役を演じている。